吉野  その3

 金峯山寺の総門(黒門)

 「大橋」から更に南へ登って行くと、直ぐに写真の様な黒い門に出会います。金峯山(きんぷせん)寺の 「総門」で、言うなれば吉野一山の総門でも有って、この様な様式の門を高麗門(こうらいもん)と云い、城郭によく用いられ、昔は公家、大名と云えどもこの門から中へ入る時は、槍を伏せ、下馬して通行したと云う格式の高い門です。ちなみに金峯山と云うのは、吉野山から大峯山に至る峰続きを指し、その間に修験道関係の寺院塔頭が点々と軒を連ね、それらの総門がこの「黒門」です。とは云っても、仁王門より貧弱な門ですが、現在の「黒門」は昭和60年秋、金峯山寺本堂蔵王堂の大屋根大修理に併せて改築されました。
 弘願寺(関屋地蔵)

 黒門を入って直ぐ右に、歯がため関屋地蔵、来迎山「弘願寺」があります。元金峯山寺末上ノ坊でしたが現在は真言宗高野山末で、本尊「阿弥陀如来立像」を安置しています。また、境内の南側に木造厨子形の地蔵堂があり、「歯がため関屋地蔵尊」を安置し、左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持ち、身の丈が約2m、光背の右側に「為供養法華経千部施主」、左側に、永正十二年(1515年)乙亥八月十五日とあり、頭上にも七個の梵字が刻まれ、おそらく何れかの結縁(けちえん)衆が法華経一千部読誦供養の記念に現世安穏(あんのん)極楽往生を願って造立したものと思われますが、歯痛に対し霊験あらたかなお地蔵さんです。
 重文「銅(かね)の鳥居(発心門)」

 「総門」を入ってまたちょっと登ると、日本三鳥居(大阪四天王寺の石の鳥居、安芸の宮島の朱色の両部鳥居と共に)の1つ、「銅の神明鳥居」が建っています。高さ7.6m、柱の径1mで、東大寺の大仏さんを造る時に余った残りの銅で造られ、扁額に弘法大師の筆で「発心門」と書かれていますが、写真は鳥居を入り裏から撮ったので見えません。なお、吉野山から山上ケ岳まで約30キロに4つの門が在り、それぞれ発心・修行・等覚・妙覚と書かれ、この「発心門」が最初の門で、大峯山入峯の修験者は、門に手を掛けて廻りながら「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」と3度唱えてから出発します。
 「金峯山寺」の国宝「仁王門」

 額に「金峯山」と書かれた「仁王門」は、重層入母屋造、三間一戸瓦葺です。建立後、南北朝1348年(正平3年)に足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の兵火で焼かれたが、1455年(康正元年)再建されました。なお、本堂の蔵王堂が南面しているのに「仁王門」は北面しています。これは大峯山へ北側から逆峯(ぎゃくぶ)する当山派の修験者に入口なので北面し、また、熊野から大峯山へ順峯(じゅんぶ)する本山派には出口です。なお、身の丈5.7mの重文「仁王像」は、1338年(延元元年)大仏師康成(運慶の曽孫)が胤舜、良円らを率いて造立した後、1456年(康正2年)改めて彩色されました。
 金峯山寺(TEL 07463-2-8371)

 金峯山修験本宗・国軸山「金峯山寺」は、白鳳年間(7世紀後半)役行者が本尊「金剛蔵王大権現」を感得し、その姿を桜の木に刻んで祭祀したのが始めで、平安、鎌倉時代に隆盛を極めたが、972年(天禄2年)、1093年(寛治7年)、1225年(嘉禄元年)、1264年(文永元年)に焼けて、その度復興し、1348年(正平3年)1月28日足利幕府の高師直の兵火で焼けた時には、107年後の1455年(康正元年)に再建され、その後、1586年(天正14年)焼失が6度目で、1591年(天正19年)東大寺大仏殿に次ぐ棟高34mの国宝・蔵王堂が再建され、重層入母屋造、桧皮葺で日本最大の建物です。




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