興福寺   (TEL 0742−22−7755)  その1

1.最寄駅
近鉄奈良駅より徒歩5分。
JR奈良駅から市内循環バスで県庁前下車。すぐ目の前(登大路を渡った南側)。

2.沿革
 南都七大寺の1つ、法相宗「興福寺」は、近鉄奈良駅前の「行基菩薩像」前を南へ進み「東向き商店街」の小路谷写真館の角を左へ曲がって少し上ると、そこが藤原氏の氏寺「興福寺」。起源は、中臣鎌足が中大兄皇子と多武峯で蹴鞠をした時、蘇我入鹿を討つ密談を交わし、その成就を願って、丈6の釈迦如来と脇侍2菩薩、そして、四天王を造り、聖徳太子が建てた大阪の四天王寺へ安置する事を発願し645年6月事が成ると、鎌足はかねての約束通り大中臣の姓を改め、ここに、藤の木下で誓った藤原の姓を賜り、中大兄皇子が天智天皇になった、669年鎌足が病に倒れるとその室の鏡女王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を願って山城国宇治の山階に伽藍を建立し、そこへ先程の尊像を安置して「山階寺」と称しました。これが「興福寺」の起源です。そして、天智天皇の弟大海人皇子が、天皇の息子大友皇子に「壬申の乱」で勝って、天武天皇に即位し都を飛鳥へ遷した672年に山階寺も高市郡の厩坂(うまやさか)へ移し、厩坂寺と改称されました。そして、710年(和銅3年)都が平城京へ遷都されると鎌足の息子、不比等により「厩坂寺」も春日の地に移され、「興福寺」と改称されて、現在に至っています。

3.みどころ

興福寺案内図。

図をクリックすれば大きくなります。)
矢印は一般的な順路です。

 県商工観光館(TEL 0742-22-4661)

 近鉄「奈良駅」東口の地下からエスカレーターで上がって、外に出ると、赤膚焼きの「行基像」が東大寺の方を向き、噴水の中に立っています。「興福寺」へ向うなら、アーケードの「東向商店街」を南に行き、途中の「小路谷写真館」の角を左に折れて、ゆるい坂道(不明門跡)を東へ上がると、「興福寺」の境内です。また、「行基像」からバス通りの登大路(国道369号線)を東へ上がって、バス停「県庁前」から南へ入っても「興福寺」ですが、「登大路」の途中、道の北側に「:県商工観光館」があります。館内西側の奥まった所に奈良県下全ての観光パンフレットが置かれ、館内東側では奈良県の特産品を販売しています。
 奈良県庁屋上広場

 旅先で観光をする場合、その土地で一番高い所に上がって俯瞰すると、後の巡回がスムースに行きます。奈良市なら一番高い所が県庁の屋上で、冬場も17:30まで解放され、土日祝がお休みです。なお、若草山の山焼きなどは管財課(TEL 0742−22−1101)に往復葉書で申込むと、抽選で屋上から見ることが出来ます。6Fに食堂と、喫茶もあり、屋上広場から東に若草山、御蓋山、大仏殿など、西に生駒山から、矢田山系、平城宮跡、南側の真下に興福寺の五重塔、北に多聞城跡を見ることが出来ます。1階の東側に県民ホールと観光情報コーナー、iセンターもあり、県下の観光パンフレット等を置いています。
興福寺で最も古い建物「北円堂」

 興福寺伽藍の北西隅に位置する国宝「北円堂」は、721年(養老5年)奈良朝初代と2代目、母と娘、元明太上天皇元正天皇の懇願により、藤原不比等の1周忌に長屋王が創建しましたが、治承の兵火で焼失し、今の建物は1210年(承元4年)頃に再建されました。本尊は運慶の晩年の作で、国宝の「弥勒如来坐像」、脇侍は「法苑林像」「大妙相菩薩像」で共に室町時代の作。また、教科書などでおなじみ、運慶の指図で運助と運賀が担当した国宝「無著(むちゃく)菩薩立像」と「世親(せしん)菩薩立像」共に鎌倉時代、791年(延暦10年)作の国宝「四天王立像」も安置され、春と秋の数日間だけ特別開扉されます。
北円堂と共に最古の国宝「三重塔」

 「北円堂」の南に在って、「南円堂」の裏やや下に在るために余り目立たない「三重塔」は、1143年(康治2年)第75代崇徳(すとく)天皇の中宮皇嘉門院の願建で建立されましたが、平安末期1180年(治承4年)12月平重衡(たいらノしげひら)を総大将とする4万余の軍勢による奈良責の「治承の乱」で焼失して、鎌倉時代に再建されました。それでも、平安時代の建築様式を伝えて、全体的に木割が細く、優美な線を創り出していますが、上部の2,3層に比べて初層が極端に大きく造られいるため、全体として安定感のある美しい建物です。なお、初層の内陣には弘法大師の空海が、奈良県西吉野郡天川(てんかわ)村の大峯本宮天河大弁財天社に祀られている弁財天を勧請された「窪弁財天」が安置されていますが、通常は秘仏で、毎年7月7日七夕さんの日に10:00〜、行われる「弁財天祭」で、1日だけ開扉(かいひ)されます。また、初層内陣には千体仏も安置され、折上小組挌天井には極彩色の文様が描かれています。
胤栄の守り本尊「摩利支天石」

 三重塔のすぐ前、芝生の傾斜面に大石がごろりと置かれています。 これは、宝蔵院胤栄の守り本尊「摩利支天石」です。奈良には古武道として、よく知られている柳生新陰流の他に宝蔵院流槍術(ホームページはこちら)が有り、流祖は興福寺の宝蔵院覚禅房法印胤栄(1607年没)で、彼は剣聖上泉伊勢守から剣術を学ぶ一方、大膳大夫盛忠から槍を学び、猿沢池に映る三日月を突いて、十文字鎌槍を工夫し、遂に宝蔵院流槍術を極めました。
春日大社の末社「采女神社」

 采女神社は、興福寺の南円堂からの石段を下りて、JR奈良駅から春日大社まで真っ直ぐ伸びる三条通りを横切った所、猿沢池の西畔に册に囲まれて建っています。その昔、奈良に都があった頃、天皇の寵愛が薄れたのを嘆いて猿沢池へ身投げした采女さんの霊を慰めるため、池の畔に建てられた祠ですが、鳥居にお尻を向けて建っています。これは采女さんが池を見るのが辛いため、一夜にして社が反対を向きました。日本広しと言えども鳥居にお尻を向けてる社はここだけです。
奈良八景の1つ「猿沢池」

 「猿沢池」は「興福寺」の放生池で、行基さんが亡くなった749年(天平21年)頃に印度の仏跡「瀰猴(びこう、大猿のこと)池」に模して築造され、周囲約360mの小さな池ですが、奈良に海がないにもかかわらず遙か遠く竜宮に通じて、昔から龍神伝説が語られ、これを基にした芥川龍之介の短編小説「竜(大正8年5月・中央公論)」では、日頃先が赤い大きな鼻をからかわれていた恵印法師が、池の畔に「3月3日この池より竜昇らん」と書いた立札を立てたら、十丈余りの黒竜が空に舞い昇ったと云い、「猿沢池」は、昔から「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚が七部に水三部」と云われています。
注:三重塔の写真の上にマウスを乗せると、内陣にある窪弁財天の写真が現れます。
但しJavascriptがオフの場合は表示しません。


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