興福寺    その2

猿沢池から興福寺「南円堂」を望む

 猿沢池では毎年旧暦8月15日仲秋の名月に「采女祭」が行われ、17:00〜花扇行列がJR奈良駅〜三条通りを猿沢池まで渡り、数十人の稚児が引く花扇車や十二単姿の花扇使も御所車で練り、19:00〜管弦船の儀で、池に浮かんだ竜頭船に花扇が移され、雅楽の調べが流れる中、二隻の船が池を二周し、秋の七草で飾られた2mあまりの花扇を水面に浮かべて、王朝絵巻が繰り広げ、また、宵宮と当日、采女神社で売られる1束500円の花扇を自宅の軒につるすと、災難除けのご利益があります。なお、采女の郷里は、福島県郡山市で、毎年8月2〜4日郡山でも釆女祭が行われ、郡山と奈良は、国内の姉妹都市の1つです。
 猿沢池の九重塔、采女地蔵、衣掛柳

 猿沢池の東畔に「九重塔」と「采女地蔵」が立ち、その右側の柳が、采女が衣を掛けた「衣掛柳」です。なお、采女のことは「大和物語」150段に書かれ、哀悼歌を柿本人麿と、采女を邪険にされた帝が詠い、「藻の下にいるなら、水が乾けばよいのに」と嘆き、また、清少納言も「枕草子」45段に書いています。

 我妹子が 寝くたれ髪を猿沢の
   池の玉藻と見るぞかなしき  人麿

 猿沢の池もつらしな我妹子が
   玉藻かつかば 水もひなまし  帝
「五十二段」の石段と「六道の辻」

 猿沢池の東畔から南へ行くと奈良町の「元興寺」が直ぐですが、北へ向かうと、仏門に入る修行の階段、善財童子が52人の知識人を訪ねて廻った故事に由来する「五十二段」の石段で、また、石段の下は、東西南北、石段も含めて放射状に6筋の道が交差し、奈良の「六道の辻」と云い、人は皆、前世の行いの如何により、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上の1つに生まれ変わるそうです。なお、石段の下で、西側に「会津八十」の歌碑が在り、段を登り切った三条通りには、大和名所図会にも描かれた樹高2mの「楊貴妃桜」や、奈良奉行を勤めた川路聖謨(としあきら)の「植桜楓(しょくおうふう)之碑」も建っています。
 「植桜楓(しょくおうふう)之碑」

 「五十二段」を上がった左に建つ「植桜楓之碑」は幕末の1846年(弘化3年)から5年間奈良奉行を勤めた川路聖謨が興福寺や東大寺に呼びかけ、町民の協力を得て、数千本の桜や楓を寺社境内、佐保高円の山々に植え、奈良公園の基礎をきずいた功績による顕彰碑です。彼は幕府の徒歩・内藤吉兵衛の長男から小普請組旗本・川路三左衛門の養子になり、18歳で支配勘定出役、1831年(天保2年)31歳で寺社奉行吟味調役になり、佐渡で百姓奉行の後、小普請奉行から奈良奉行を経て、大阪町奉行、勘定奉行、外国奉行で江戸城明渡しの時、「わしは幕臣だ」と云って腹を切り、短銃で喉を撃ち、68歳で永眠しました。
興福寺の「般若の芝」と「南大門跡」

 「五十二段」の石段を上がり、三条通りの「すべり坂」を少し西へ下ると、興福寺への石段が右に数段あり、そこを上がると「興福寺の南大門跡」で、その手前に竹で囲われた芝の台地が春と秋の夜に篝火を焚いて「薪能」が行われる「般若の芝」です。そして、「般若の芝」から北側の石段を上がると、南大門跡に今も石畳が敷き詰められ、敷石の1/3、116枚に鏃(やじり)形の澤潟(おもだか)や、雁、丸の刻印が刻まれているので、「南大門」を一名「澤潟門」と呼んでいました。なお、「南大門」が再建された時に門番をなさる「仁王さん」の首から上は、現在「興福寺の国宝館」の出口と入口の正面に安置されてます。
 興福寺の「額塚(茶臼山)」

 「南大門跡」から北側の石段を下りて、西の「南円堂」の方へ向かう途中、売店と「不動堂」の間に高さ2m芝生の「茶臼山」が在ります。奈良時代天平宝宇の始め頃、興福寺南大門にも月輪山(がちりんざん)の山号額を掲げていましたが、何故か、しばしば魔障が起こり、風も無いのに樹木が倒伏し、水が突然噴出して大穴を開け、石垣を崩壊したので、山内大いに困惑していると、ある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがあり、困り果てて額を取り下げると、不思議にその後何も起こらず事なきを得ました。それで、額を埋めた所が「額塚」で、以後は、法相宗大本山「興福寺」では、山号を用いておられません。

八角宝形造の「南円堂」

 右近の橘、左近の藤が植わる西国三十三所第九番札所「南円堂」は、813年(弘仁4年)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が空海の助言で、不空院の「八角円堂」を雛型として、父内麻呂(うちまろ)の為に創建し、その後4回焼失して、今の堂は、1741年(寛保元年)の立柱で、堂内に、1189年(文治5年)運慶一派の仏師康慶(こうけい)らによる三つ目で八臂(はっぴ)、像高3.36mの本尊「木造不空羅索(ふくうけんさく)観音菩薩坐像」と「木造四天王立像」を安置し、いずれも国宝です。なお、堂の左前に頻頭盧尊(びんずるそん)者を祀り、北隣が「一言観音堂」、斜め前が「不動明王像」を安置する「不動堂」です。
「西金堂跡」と「金春発祥地」

 「南円堂」の北隣の空地が、734年(天平6年)光明皇后が母の橘三千代の一周忌に創建した「西金堂跡」で、三面六臂(三つの顔と六本の腕)の阿修羅など28仏を安置していました。また、ここが「薪能金春(こんぱる)発祥地」で、金春座は大和猿楽四座の1つ、秦河勝を祖、秦氏安を中興とし、大和の円満井座(えまいざ、又は竹田座)から出た一座で、その末流金春流は能楽五流の中で最古の流派です。室町時代中期に出た世阿弥の女婿・金春禅竹を中興の祖とし、彼が、1437年(永享9年)世阿弥から「花鏡」を伝授され、後に流風に新生面を開き、後の家元は桃山時代に全盛を極め、能楽の主役を演じるシテ方です。


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