奈良市西部から茶筌の「高山」辺り  その5

 杵築神社(TEL 0742-43-8647)

 「添御県坐神社」の鳥居の前から、また旧道を北へ辿ると、近鉄奈良線「富雄駅」で、更に富雄川に沿って北へ2キロ行くと、バス停「杵築(きつき)橋」の手前に鳥居が建っていて、松並木の参道を東へ向うと「杵築神社」です。古くより牛頭天王と呼ばれ、敏達天皇の皇子春日王が聖徳太子らと物部守屋を滅ぼした功績により、この地(大字春日)を拝領して舎城を構え、祖神をここに鎮祭されたのが始めで、明治42年に三松鎮座村社「杵島神社」を合祀し、主神は素盞鳴(すさのを)命で、相殿に天忍穂耳(あめノおしほみみ)命と市杵島姫(いちきしまひめ)命を祀り、奥の頌徳(しょうとく)社の横に役行者石像があります。
 王龍寺(TEL 0742-45-0616)

 「杵築神社」の参道を真っ直ぐ西へ出て、富雄川を渡り、更に西へ向かい、飛鳥カンツリー娯楽部の中を通って矢田丘陵に至ると、右側に「石仏観音岩屋大黒天王龍寺」の石碑が建ち、参道の奥に黄檗宗(おうばくしゅう)海龍山「王龍寺(おうりゅうじ)」の山門が見え、門に「門開八字森々松檜壮禅林(門は八の字に開き、森々として松檜禅林に壮んなり)」の書があります。山門を入ると苔の中に石畳を敷き、小さな滝もあり、最後の石段を登ると、直ぐ目の前に「本堂」が建ち、聖武天皇の勅願により建立され、昔は正月堂等の僧坊もあって、「僧坊千軒」と云われるほど盛大でしたが、後に筒井氏の兵火で焼かれ衰退しました。
 王龍寺の「本堂」

 1689年(元禄2年)大和郡山城主の本多下野守忠平が、黄檗宗の開祖隠元禅師(いんげんぜんじ)の孫弟子、梅谷和尚を招いて菩提寺として再建開山し、山門と本堂がその時に寄進され、今日に至っていますが、内陣の本尊は、高さ4.5m、幅5.5mもある巨石に刻まれた高さ2.1mの十一面観世音菩薩で、光背形を彫り窪めた中に半肉彫りに刻まれ、下に蓮花台を浮彫りにして、慈愛あふれる優雅な美しさを創り出し、「建武三年(1336年)丙子二月十二日大願主僧千貫行人僧千歳」の銘があります。また、本尊に向かって右脇にも、高さ1mの不動明王が刻まれて、銘は、文明元年(1469年)十月になっています。
 王龍寺の「ヤマモモ」

 「王龍寺」の本堂の裏へ廻ってちょっとした広場へ出ると、王龍寺境内の裏門の脇に、今も沢山葉が繁る「ヤマモモ」の大木が植わっています。雌(め)株で樹高約11m、主幹の内部が既に朽ちて空洞になっていますが、目通り約2.7mの堂々とした大木です。側幹が3本あって、その最大木は、目通り約1.7mです。樹幹の基部での周囲は、約5mほどあり、樹齢約300年で、本堂が創建された江戸時代1689年(元禄2年)以後に庫裏(くり)の裏近くに植えられたものと思われます。昔は、参詣した賓客をもてなすのに、ヤマモモはかけがいのない果物であったとか。なお、昭和54年5月14日奈良市指定文化財です。




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