奈良市の東端「田原」「水間」から「山添村」  その2

 津・藤堂藩士「北浦定政」の顕彰碑

 「光仁天皇陵」の南東、直ぐの所に「北浦定政」の顕彰碑が道を挟んで向かい合うように建っています。北浦定政は、1817年(文化14年)和州(奈良)添上郡古市村に生まれ、勢州(三重)藤堂藩大和古市(ふるいち、藤堂藩の飛地)奉行所の役人で、田畑になって埋もれていた平城京跡を自分で造った測量車を押して隅から隅まで測定し、奈良時代の道路が水田の畔として残っていることを見つけ、「平城宮大内裏跡坪割(つぼわり)之図」にまとめました。これが平城京研究の草分けで、また、ここに顕彰碑があるのは、「光仁天皇田原東陵」の考定修補にも功ありと、彼の生誕160年を記念して、昭和51年に建てました。
 国史跡「太朝臣安萬侶墓」

 「北浦定政の顕彰碑」から「白砂川」を渡って西へ500m行き、北側の急斜面を上がると「太朝臣安萬侶(おおノあそんやすまろ)墓」があり、昭和54年1月竹西英夫氏によって茶の改植中に発見され、出土した銅製の墓誌から平城京左京四條四坊で、723年(養老7年)7月6日に亡くなった古事記編纂者、従四位下勲五等「太安万侶」の墓と判明しました。墳丘は径約4.5mの円墳で、中心部に墓を掘り、底に木炭を敷いて墓誌を置き、その上に火葬骨と真珠を納めた木櫃(きびつ)を安置し、周囲と上面を炭で覆った木炭槨で、更にその上に墓全体も薄く炭を敷き、砂質土を版築(はんちく)状に硬く突き固めていました。
 市文化「切り付け地蔵(南田原磨崖仏)」

 「太安萬侶墓」からまたバス停の「田原横田」まで戻って、更に南へ行くと、道路の左(東)側に奈良市指定文化財で、史跡の「南田原磨崖仏」があります。花崗岩の崖面の中央に「阿弥陀如来立像」が彫られ、更に向かってその右に「弥勒菩薩立像」、また左下に「六地蔵菩薩」が刻まれて、「阿弥陀如来立像」は、鎌倉時代のもので、丸彫りに近い立体感のある豊かな表現を見ることが出来、同時代の石仏の中でも優れた作品です。銘文から元徳3年(1331年)東大寺の宗詮が願主になって、伊行恒が彫ったもので、東大寺再興の為、1253年(建長5年)頃宋から来日し、当時大和を中心に活躍していた伊(い)派の作です。
 県指定史跡「塔の森(六角層塔)」

 「南田原磨崖仏」から更に南へ2キロほど行って、2車線の道が左右に分かれそれぞれ1車線になる所を左へ行くと「名阪国道の一本松IC」へ向かい、右へ1キロほど登って行くと、奈良市長谷(ながたに)町と天理市福住町の境界に聳える標高660mの山中に「塔の森」があります。二重基壇の上に建つ六角十三重石塔でしたが、春日石と呼ばれる柔らかい凝灰岩の様な石で造られているため、風化破損が甚だしく今は初重塔身を含めて六重の笠石が重ねられ、周囲には、その断片が散乱しています。台座、笠石すべてが平面六角の形式も珍しく、奈良時代ただ1つの十三重六角石塔で、正倉院に同型のミニチュア模型があります。
 東寺真言宗・離苦山「十輪寺」への参道

 また、バス停「田原横田」まで3キロほど戻って、県道80奈良名張線を東へ向かうと、バス停「田原大野」の直ぐ左(北)に「十輪寺」があります。古くは現奈良市田原(たわら)地区の中心的大寺でしたが、1739年(元文4年)と1819年(文政2年)に火災に遭って、多くの什宝を失い、草創は不明です。1700年頃(元禄年代)までは真言宗新義派で、長谷寺の末寺でしたが、それ以後は法隆寺北室(きたむろ)院の末寺で、江戸末期、当寺の末寺が、26ヶ寺ありました。ご本尊の「地蔵菩薩立像」の周囲には、「四天王」が配され、脇壇に「不動明王」2躯、また県指定文化財で、頭部内に永禄6年(1563年)に
 「十輪寺(じゅうりんじ)」の本堂

宿院(しゅくいん)仏師の源二郎、源三郎が制作した旨の墨書がある「木像阿弥陀如来坐像」が安置されていますが、宿院仏師とは、昔「多聞城」の出城「宿院城」があった現在の奈良女子大の辺り、奈良市宿院町に住み、16世紀に活躍した一派で、当寺の仏像は、その最盛期の作風を示す仏像として知られ、その他に「中興開山秀清坐像」、「弘法大師像」などを安置し、正和3年(1314年)銘のある面径19.2cmの鉦鼓もあります。また、墓地は郷墓で、鎌倉時代末期の「五輪塔」を始め、室町時代の石碑や石仏が多く、応永2年(1395年)造立の供養碑が建っていますが、安萬侶の遺骨も「十輪寺」に納められています。




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