奈良市の東端「田原」「水間」から「山添村」  その1

 奈良県ヘリポート(TEL 0742-81-0501)

 JRまたは近鉄の奈良駅から下水間(しもみま)行バスに乗ると、奈良公園高畑町を通って、県道80奈良名張線に入り、白毫寺町から高円山の南側を通りバス停「須山」を過ぎると直ぐ、右(南)側の高台に「奈良県ヘリポート」の格納庫が見えて来ます。誰でも利用できる公共のヘリポートで、現在は、奈良県警航空隊、防災航空隊、アカギヘリコプター(株)の各ヘリコプターが常時待機し、7:00〜20:00が運行時間で、最大離陸重量1トン以下のヘリコプターなら昼間の着陸料が1回につき1500円です。なお離着陸できる機体の大きさは、全長26m以内、かつ最大離陸重量11トン以内のものに限られています。
 春日宮天皇陵(田原西陵)

 バス停「須山」の次のバス停が「田原御陵前」で、志貴皇子(しきノみこ、天智天皇の第7皇子、母は道君伊羅都売)の「田原西陵」があります。奈良時代の律令制度では、都の中に墳墓の築造が禁じられ、平城京から遠く離れた田原の里辺りに貴族、官人らの墓が多く見られ、715年(霊亀元年)9月に亡くなった志貴皇子は、770年(宝亀元年)第六子が光仁天皇に即位の時、春日宮天皇と追尊号を贈られ、田原天皇とも称して、彼の歌が万葉集に全部で6首あります。

 石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる
 春になりにけるかも   巻8−1418
 奈良朝最後の光仁(こうにん)天皇陵

 バス停「田原御陵前」から更に東へ下って、3つ目のバス停「田原横田」から北へ1キロほど行くと志貴皇子の第六子、第49代光仁天皇(白壁王)の「田原東(たわらひがし)陵」があります。770年(宝亀元年)8月第48代稱徳天皇53歳が崩御された時、正三位勲二等大納言の要職にあった白壁王62歳が、皇太子になり、同年藤原永手や百川らに擁立されて即位し、道鏡を下野国へ左遷して、大隈に流されていた和気清麻呂を召し返し、在任12年です。なお、天皇の妃は聖武天皇の皇女井上内親王でしたが、772年(宝亀3年)巫蠱(ふこ)大逆の冤罪により皇后を廃して、五條市へ幽閉され、その地で亡くなりました。




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