県史跡「益田(ますだノ)岩船」 「見瀬丸山古墳」から西へ行き、国道169号線を渡った所が近鉄吉野線「岡寺駅」で、駅の更に西側へ行き、公団橿原団地内のバス停「南妙法寺町」の直ぐ南に「益田岩船」へ登る標識があります。雨水で剔られた少し急な斜面を登ると、目の前にでかい花崗岩の巨石が現れ、東西約11m、南北約8m、北面の高さ約5m、上部中央東西方向に幅約1.6mの浅い溝があり、その中に一辺約1.6m、深さ約1.3mの正方形穴が2つ掘られています。なお、用途については空海が碑名を撰した益田池の顕彰碑の台座、古墳の石槨(せっかく)、占星台、拝火教の祭壇などの諸説がありますが、はっきりした事は判らず、今も謎です。 |
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真弓「鑵子塚(かんすづか)古墳」 「益田岩船」は南西の貝吹山(標高210m)から伸びる尾根上にあり、更に南に「鑵子塚古墳」があります。尾根端部(おねたんぶ)の瘤状(こぶじょう)の地形を利用して造られ直径約40m、高さ5mの円墳で、くの字に通り抜ける長さ19mの横穴式石室は中央が18畳分の広い玄室(死者を葬る室)で、高さ4.7m、石舞台古墳より一回り大きく、国内最大級で、石壁から上部へ積石がドーム状に400個以上積まれ、北と南に羨道(せんどう、玄室に至る通路)が取り付く特殊構造を成し、6世紀の中頃、東漢(やまとノあや)氏の墓と推定され、金銅製の飾り金具や馬具、銀象嵌(ぞうがん)の太刀飾りが出土しました。 |
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国史跡「牽牛子塚古墳」 「鑵子塚古墳」から北東へ600mほど離れて、同じ真弓丘陵の一画に「牽牛子(けんごし)塚古墳」があります。朝顔塚古墳、御前(ごぜん)塚古墳とも呼ばれ、墳丘は、版築で造って、墳丘北西部に花崗岩の切石3個が露出し、それを外護列石とする二段で高さ5m、対角長33mの八角形墳です。中へは鉄格子があって入れないが、墓室は巨大な凝灰岩をくり抜いた横穴式石槨で、中央に間仕切部を削り出す2室の複室を成し、始めから追葬を意識して石槨を造ったと考えられ、それぞれ石室床に長さ1.9m、幅0.8m、高さ0.1mの低い棺台を削り出し、夾紵棺(きょうちょかん)の破片や七宝金具などが出土しています。 |
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国史跡「岩屋(いわや)山古墳」 「牽牛子塚古墳」から近鉄吉野線「飛鳥駅」へ出る途中に「岩屋山古墳」があります。墳丘は、封土の西半分が削り取られていますが、基底部の直径54m、高さ12mの方形墳と推定され、道から少し奥まった所の階段を20段程上がると、直ぐ目の前に南面する開口部をもつ横穴式石室が花崗岩の磨かれた切石で造られ、羨道は、南端の天井石に閉塞施設のための溝が切り込まれて、幅1.9m、長さ12m、入口の側石が二段積みで、玄室は、側壁と奥壁に切石を二段に積み、幅2.7m、長さ4.7m、高さ2.6m、下段は垂直で、河内の科長の聖徳太子の廟墓と同じ構造様式で造られ、築造は、7世紀前半と見られています。 |