飛鳥  その7-1
 雷丘(いかづちノおか)

 「甘樫丘」の直ぐ北に「飛鳥川」を挟んで、全体を竹藪で覆われた「雷丘」があります。丘の中央を東西に道路が通じ、西へ行って飛鳥川を渡った所、向原寺の北に「小墾田宮跡」があり、また、「雷丘」の東側には「雷丘東方遺跡」があって、奈良時代の建物跡が発掘され、井戸跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土しています。なお、「雷丘」は、第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の随身、少子部栖軽(ちいさこべノすがる)が、461年(雄略天皇6年)7月天皇と皇后の同衾(どうきん)中に雷が鳴り、そこへ栖軽が参入し、慌てふためいた天皇が、バツ(テレ)隠しに雷を捕らえて来る様に命じて、雷を捕まえた丘です。
 小墾田宮(おわりだノみや)跡

 「雷丘」及び「飛鳥川」の西側、明日香村豊浦の北で、橿原市和田町小字古宮(ふるみや)の田圃の中に「古宮土壇(どだん)」と云う塚のような所があり、昭和45年に行われた発掘調査の結果、ここが女帝で第33代推古天皇の「小墾田宮跡」と推定され、付近一帯から7〜8世紀頃の遺構として、玉石組の池や、S字形に屈曲した溝と玉石敷の庭園、掘立柱の建物跡等が出土し、推古天皇が39歳の時、592年12月8日「豊浦宮」で即位し、翌年4月10日聖徳太子を皇太子にされて、603年10月4日「豊浦宮」からここ「小墾田宮」へ移られ、628年3月7日75歳で崩御されるまで25年間過ごされた「宮跡」です。
 甘樫坐神社(TEL 0744-54-2071)

 「向原寺(豊浦寺跡)」の横を通って直ぐ裏の道に廻ると、「甘樫坐(あまかしにいます)神社」です。我が国初の女帝第33代推古天皇らを祀っています。境内に高さ2.9mの「立石(りっせき)」があり、その前で4月に豊浦、雷大字の氏子により、嘘、偽りを正す「盟神探湯(くがたち)神事」が行われます。「日本書紀」によると、415年(第19代允恭天皇4年)氏姓制度の混乱を正すために、甘橿の神の前に諸氏が会して、煮え湯の入った釜に手を入れ、その中の小石を探らせて、「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」と云って、正邪真偽を決める古代の神明裁判「盟神探湯」が、当神社で行われました。
 剣池(つるぎいけ、石川池)

 「甘樫坐神社」から西へ行くと「和田池」があり、更に西へ行くと明日香村から橿原市菖蒲町へ入って、石川池(剣池)があります。「古事記」に第8代孝元(こうげん)天皇の御陵は、剣の池の岡の上にある。と記され、池の南東から孝元天皇の「剣池嶋上陵」へ行くことが出来ます。第15代応神(おうじん)天皇の時、軽(かる)池、鹿垣(かのかき)池、廐坂(うまやさか)池と共に「剣池」も造られました。なお、「剣池」とは、現在の「石川池」です。「日本書紀」に635年(第34代舒明天皇7年)7月瑞蓮が剣池に生長した。一茎に二つの花がある。と書かれていますが、ここから西へ行くと近鉄橿原神宮前駅東口です。
 本明寺(石川精舎跡)

 石川池(剣池)の西端から西へ入ると、橿原市石川町に浄土宗「本明寺(ほんみょうじ)」があります。「日本書紀」敏達天皇13年条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初、玆より作れりとある石川精舎(いしかわノしょうじゃ)の跡と云われていますが、当寺付近から古瓦の出土がなく、別の地と云う説もあり。なお、本堂脇に建つ南北朝様式の五輪塔は、「越智家譜伝」によると、1523年(大永3年)2月19日に久米(くめ)寺石川の合戦で討死した32人の追善供養のため、越智家栄(おちいえひで)が建てた塔とかで、元は橿原市久米町芋洗(いもあらい)地蔵境内にあったと云われています。
 県下最大、国史跡「見瀬丸山古墳」

 「剣池」から畝傍東小学校の側を通って南へ向い、橿原市五条野町へ入って右へ折れ、西へ向かって近鉄吉野線「岡寺駅」の方へ向うと、途中に「見瀬丸山古墳」があります。全長318m、後円部径155m、前方部幅210mで、前方部が開墾され畑地になり、先端を国道169号線によって一部削り取られているが、周濠と外堤及び周庭帯を有する後期古墳、6世紀最大の前方後円墳で、全国第6位、被葬者は第29代欽明天皇(檜隈坂合陵は偽物)で、後円部頂上は明治時代に陵墓参考地に治定され、立入禁止です。なお、ここから東方300mに「植山古墳」があり、御陵で唯一発掘調査された欽明天皇の娘・推古天皇墓です。
 植山(うえやま)古墳

 橿原市五条野町の八咫烏神社(五条野城跡)西側の斜面に第33代推古天皇の「植山古墳」があります。平成12年に我が国で唯一発掘調査された天皇陵で、東西40m、南北27m、藤ノ木古墳よりも小さな古墳の為、今まで余り注目されなかったが、「古事記」に推古天皇の墓は大野岡(おおのノおか)にあり、後に科長(しなが)に移したと記載され、「日本書紀」で「息子の竹田皇子と合葬してほしい」と遺言された様に、石舞台古墳に匹敵する2つの横穴式石室が発見され、東側の石室は幅3m、長さ6.5mですが、西側の石室は幅2.5m、長さ5mで、元推古天皇の墓であった事を裏付ける様に中は空になっていました。
 国史跡「菖蒲(しょうぶ)池古墳」

 「植山古墳」から南へ出て、県道155多武峰見瀬線を東へ向い、県道の北側にある奈良県立明日香園の方へ上がって行くと、明日香村屋内ゲートボール場の手前で、道の反対(西)側にある鉄梯子を3段上がって、山際を西へ進むと、「菖蒲池古墳」があります。藤原京朱雀大路の南延長線上に築かれた古墳で、墳丘は封土がほとんど流失し、2枚の天井石が露出して、形状がはっきりしないが、約20mの方墳か円墳のいずれかで、横穴式石室を持ち、2基の家形石棺が共に四注造の屋根を付け、内面に漆を施し、北側の石棺は四隅に柱状の彫刻を、南側の石棺は上下端に帯状の造り出しを持ち、南北縦1列で安置されていました。



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