句碑の郷「東吉野村」  その13

 天照寺(てんしょうじ、TEL 07464-2-0388)

 また、「四郷川」から「蟻通し渓谷」沿いに西方へ三尾まで戻り、更に「丹生川上神社中社」の前を過ぎて、東吉野村大字小(おむら)の集落の高台に曹洞宗南泉山(なんせんざん)「天照寺」があります。鎌倉期の1280年代(弘安年間)この地方を治めていた小川氏の菩提寺として創建され、小川氏治世の頃から万民豊楽を祈願し毎年彼岸に法要が行われていたが、1580年代(天正年間)火災により本堂が焼失し、その後、小川郷内各寺院の持ち回りで行われるようになり、その懴法(せんぼう)法要は今日まで続いています。その間、1644年(正保元年)万安英種和尚により再興され、真言宗から曹洞宗に改宗しました。
 小川城主の墓

 「天照寺」の西隣、崖下に小川城主の墓地があり、十三重塔2基、五輪塔5基、いずれも鎌倉時代の末期から南北朝時代のものです。小川弘光は、1458年(長禄2年)後南朝が保持していた神璽(しんじ)を北朝へ奉還したことで知られています。なお、神璽は皇位のしるしとして、歴代天皇が受け継ぐ三種の神器の1つです。また、弘光の時代が小川氏の最盛期で、その勢力は、宇陀郡までも及んでいたが、1587年(天正15年)小川氏は豊臣秀長にこの地を追われ、小川次郎と弘が書いた置文が隣の東吉野村大字木津川(こつがわ)の山本家に残っています。なお、小川氏の居城は、当村大字小川のハルトヤ峰にありました。
 県指定文化財、天照寺の「薬師堂」

 更に「小川城主墓地」の西側に「薬師堂」が建っています。寄棟造、茅葺で、棟木の銘に「神光寺(じんこうじ)」とあり、天正12年(1584年)に上棟をしているけど、残念ながら「神光寺」は、明治9年廃寺になっています。なお、ご本尊は、薬師如来坐像で、台座の底部に室町時代の文明7年(1457年)藤原(小川)弘光によって、再興されたと言う墨書があります。また、この「薬師堂」は、「高見川」筋に広がる小川郷七薬師の1つで、毎年1月8日子孫繁栄と五穀豊穣を祈願して初祈祷が行われますが、ふしの木で作ったオコナイ棒で縁側を叩いた後、お札を取り合い、祈祷に使ったオコナイ棒は厄除けになります。
 東吉野村小(おむら)の「石鼎庵」

 なお、「薬師堂」の更に西隣に俳人「原石鼎(はらせきてい)旧宅」があります。原石鼎は、明治19年島根県簸川郡(ひかわぐん、現在の出雲市)で開業医の三男として生まれ、京都医専を中退し、26歳の時、当時奈良連隊軍医の次兄のもとに身を寄せ、兄と共に東吉野村小(おむら)の出張所で医療を手伝いながら短歌や俳句を作っていました。大正4年東吉野村小を後にして上京し、高浜虚子が主宰した俳句雑誌「ホトトギス」に投稿して、「ホトトギス作家」と云われ、自然を詠んだ格調高い句を多く残しています。35歳の時に「鹿火屋(かびや)」を発行・主宰し、「花影」「石鼎句集」を作り、昭和26年65歳で亡くなる。




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