御所市、「巨勢の道」  その9
 県史跡「権現堂(ごんげんどう)古墳」

 「阿吽寺」からもう一度東へ戻って、JR和歌山線と近鉄吉野線の「吉野口駅」から更に東へ行き、曽我川を渡って北へ向かい、「葛小学校」の下を過ぎたら右へ進んで東へ上がると、樋野(ひの)の集落の上に浄土宗飯降山「重信院」があり、更にその上に「天安河(あまノやすかわ)神社」が鎮座し、神社の参道の右横に「権現堂古墳」があります。古墳の墳丘は既にその原形を留めていませんが、径約15mの円墳で、高さは現状で約4m、横穴式石室は奧壁の部分が破壊され羨道(せんどう)部は土に埋まっているが、破壊した部分から石室内を見ることができ、石室は、形袖式で、南南東を向き、玄室の長さは約5.5mです。
 天安河(あまノやすかわ)神社

 なお、「権現堂古墳」の石室は、幅2.5m、高さ2.3m、羨道の幅1.7mで、玄室の中央部やや奧よりに刳抜(こりぬき)式家形石棺が置かれ、石棺は凝灰岩製で、全長約2.3m、幅1.1m、蓋の厚さ約57cm、石棺内部に石枕が取り付けられ、また、蓋の長手側面に2個づつ計4個、円筒状の縄掛突起が取り付いて、棺には赤色顔料の塗布が認められます。更に石室内に、あと1つ縄掛突起部を持つ家形石棺があったと思われるが、完全に破壊され、神社境内にも石棺材が散乱し、この古墳には、複数の石棺が置かれていたと考えられ、副葬品は不明ですが、家形石棺が比較的古い形式で、6世紀前半の古墳と比定される。
 川合「八幡神社」

 また、「吉野口駅」まで戻って、更に南へ向かい、路線橋の下をくぐって線路を渡り、JR和歌山線沿い「巨勢の道」を南へ行くと、御所市古瀬字川合に至って、道の右側に「八幡神社」が鎮座しています。この辺りは、古代の豪族「巨勢氏」の本拠地で、北の大和の平坦部や飛鳥から南の吉野や紀伊国へ通じる重要な拠点を占めていました。なお、川合の「八幡神社」の拝殿を廻って、境内をちょっと上がった本殿は、春日造で方二尺五寸の古めかしい社ですが、祭神は、誉田別命(ほんだわけノみこと、応神天皇)と、母の気長足姫命(おきながたらしひめノみこと、神功皇后)、大倉比売命(大己貴神の子「下照姫」の別名)です。
 川合「八幡神社」へ奉納の「ゴクツ」

 また、川合「八幡神社」の拝殿は、3間に1.5間で、拝殿内に沢山の「ゴクツ」がぶら下がっていますが、なお「ゴクツ」とは、毎年10月9日に行われる「引合餅(ひきあいもち)」の奇祭で用いられる藁のカマスで、その中にお餅を包み、宵宮の夕方、神前で相撲が終わった後、「引合餅」の行事で、「ゴクツ」に松明でこぶし位の穴をあけ、氏子が中の餅を奪い合います。うまく取り出しても横取りされることがあり、これを繰り返して、確保した餅を素速く頭上に捧げた者が勝者で、それを誰も後から奪い取る事が出来ない約束になっており、その餅は妊婦の方が食べると安産間違いなしと云われて、毎年多くの希望者がいます。


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