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伊賀上野城の「白鳳門」
なお、1608年(慶弔3年)伊勢と伊賀両国の城主として、藤堂高虎が伊予から移って来た時に、徳川家康から秘命を受け、「津は平城なり、当座の休息所と思うべし。伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし」と云われ、1611年(慶長16年)筒井の故城を拡張して大改修に着手し、内濠、外濠の工事を始めましたが、竣工直前の天守閣破壊以後は、再建せず、伊賀に城代が置かれ、津藤堂藩主は、明治2年藩籍奉還まで10代続きました。また、大天守に続く今の小天守は、総丈31尺5寸(9.54m)、その構造は大天守と同様の手法で建てられ、天守から南へ下りると、通りに面して「白鳳門」が建っています。 |
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県文化、上野高校「明治校舎」
「白鳳門」をくぐって大通りへ出ると、西隣が上野高校(崇廣堂の武道館跡)で、横光利一が学んだ明治時代の校舎が今もあり、屋根越しに「伊賀上野城」の屋根が見えます。横光利一は明治44年当時の県第三中学校(今の上野高校)に入学し、卒業までの5年間この校舎で学び、大正末期に発表した「日輪」や「頭ならびに腹」等によって、川端康成らと供に「新感覚派」と呼ばれ、後に「機械」、「上海」、「紋章」、「家族会議」を発表し、昭和初期文壇を代表する作家となったが、長編「旅愁」が未完のまま、昭和22年病没しました。伊賀上野城「高石垣」の高台に「川端康成」が「横光利一」を偲んだ石碑が建っています。
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国史跡、崇廣堂(TEL 0595-24-6090)
「上野高校」の校庭に沿って、通りを西へ行くと、隣が旧藤堂藩藩校「崇廣堂(すうこうどう)」です。正門の西側に「赤門」と呼ぶ朱塗りの長屋門があり、門を入ると、正面に入母屋造の式台玄関をもつ創建時の玄関棟(玄関、母屋)があり、1821年(文政4年)津藩十代藩主藤堂高兌(たかさわ)により藩士の育成の為に建てられ、なお、津藩には津城内に、前年に設立した「有造館」があったが、伊賀上野に支校として開設され、「崇廣」は「書経」の「功の崇きは惟志なり、業の廣きは惟勤なり」から取り、七間四面、入母屋造の「講堂」では、教師約10名で、約300名の生徒に、作詩、作文、医学、算術を教えました。 |
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旧小田小学校(TEL 0595-21-9957)
「旧崇廣堂」からまた上野高校の方へ戻って、右に折れ、校庭に沿って北へ上ると、城の「内堀」で、木の間隠れに「高石垣」が見え、突き当たりの三叉路を左へ折れて坂を下ると、右の奥まった所に、明治14年19日落成した県文化の「旧小田小学校本館」が建っています。洋風木造2階建、間口15.84m、奥行き7.92m、正面ポーチを含め延べ274平米、現存する小学校では県下最古の建築物で、寄棟造、桟瓦葺、ポーチは切妻造、壁は漆喰仕上げ、軒は特送り風のくり形になっていて、最も意匠を凝らしているのは正面ポーチで、エンタシス風の柱を用い、階上、階下とも吹き抜けになっており、玄関入口上部に竜の彫刻がはめ込まれています。参観料は100円です。 |