伊賀上野  その4
 「避水徒民之碑」のある「平井神社」

 「旧小田小学校本館」の石段を降りた右(北)隣が「平井神社」ですが、参道を上る左側に「避水徒民之碑(ひすいしみんのひ)」が建っています。ここ上野市小田地区は、伊賀の北西部に位置し、長田川と柘植(つげ)・服部(はっとり)川が合流するため、古くから水害に悩まされ、1854年(安政元年)の地震によって地盤が沈下してからは、更に河川の氾濫が度重なり、ついに明治3年の「午年の水害」で多くの田畑が流失して、死者5人、潰家85戸の被害を出し、この時、居住地をそっくり高台に移す計画がなされ、移居世話係となった村田順造氏の卓越した指導の下、地区民は一致団結し、避水移居事業を完成しました。
 「開化寺」の日本一小さい「三重塔」

 また、「旧小田小学校本館」の下を通って南へ上ると国道163号線で、渡って崖を上り西へ向い、突き当って南へ向いたら右へ2度曲がると「竹の道」で、右(北)側の崖下に、日本一小さい「三重塔」が見えます。明治8年5月文明開化の時、称念寺と福寿寺が合併して、浄土宗、森田山「開化寺」になったお寺の塔で、元は清浄山飛来山蔵坊の「浄瑠璃寺」にあった塔を明治初年に移築し、その後旧塔を売却して、大正4年再建され、本瓦葺、高さ13mの塔です。なお、「開化寺」は、宗祖円光大師(法然上人)二十五霊場第六番札所で「身代り観世音菩薩」を安置し、その他同寺に未完成の三重塔(模型)があって、その塔は、明治43年旧塔が売却される時、「筒井景春」が塔の姿を残そうと、仕事の合間に作り、九分どおり出来てそのままになっていたのを先年、遺族が同寺へ寄付したものです。また、筒井景春は、藤堂藩鎧師、小市郎貴保の二男で、廃藩後転業し、神仏像を彫っていた父から手ほどきを受け、腕の良い木目込人形師でした。
 「鍵屋ノ辻」の大きな「石標」

 「開化寺」の「三重塔」を見ながら竹林を下って、三叉路を右へ行くと「開化寺」ですが、左へ曲がって南へ辿り、近鉄伊賀線の下にあるレンガ造のガードをくぐって、更に南へ行った四つ角が日本三大仇討ちの1つ「鍵屋ノ辻」で、北西の角に「文政十三年庚寅年(1830年)仲秋再建」、「みぎいせみち(右伊勢道)」、「ひだりならえ(左奈良へ)」と彫られた道標が建っています。ここは昔、京都、奈良方面から伊勢へ向う道筋「伊賀街道」で、また、奈良から江戸へ向う道筋「江戸街道」でもあります。なお、ここら辺りは度々水害に見舞われ、昭和28年9月25日(金)の台風13号では地上から2.5mまで浸水しました。



奈良観光表紙に戻る  伊賀上野市街図を開く  前のページに戻る   次のページに進む