伊賀上野  その10
 念仏寺(ねんぶつじ)

 「大超寺」の前、東側に浄土宗光明山摂取院「念仏寺」があります。1585年(天正13年)筒井定次が伊賀へ移封されたのに伴って、大和国筒井庄から移されて来たと伝えられ、俗に「大和寺」とも呼ばれています。本尊は国指定重要文化財「木造阿弥陀如来坐像」、高さ1.3m(半丈六)、寄木造、漆箔の来迎像で、平安時代後期の作と伝えられ、衣の襞(ひだ)が明瞭に流れ、定朝様の穏やかな作風を基調としながら堂々として力強く、厳しさも合わせ持って量感があります。他に、県文化「紙本墨書末代念仏授手印巻(書跡)」もあり、また、伊賀では珍しい「六角堂」に百体観音像を安置し、墓所に「伊賀越仇討」で知られる荒木又衛門の従者「河合武右衛門」の墓があります。
 善福寺(ぜんぷくじ)

 「念仏寺」の斜め前、「大超寺」の北隣が、真言宗豊山派の「善福寺」です。町内の住民に「寺町通り」から西側にある「新町通り」への往来を許しているので、「行き抜け寺」と呼ばれています。なお、真言宗豊山派は、真義真言宗の一派で、戦国乱世の時代に僧兵がたてこもる紀州「根来寺」においてひたすら学問と研究に精進し、やがて、大和郡山藩主「豊臣秀長」の要請を受け「長谷寺」を再興した「専誉僧正(せんよそうじょう)」を派祖とし、総本山は「長谷寺」ですが、1682年(天和2年)伊賀においても33体の観音菩薩が奉納され、諸寺に分けられて巡礼信仰仏となり、伊賀でも巡礼が始まったと云われています。
 万福寺(まんぷくじ)の「川合又五郎」墓

 「寺町通り」を挟んで「善福寺」の真ん前、東側にあるのが、やはり真言宗豊山派「万福寺」です。元は「平楽寺」と称し、伊賀上野城の西にあった大寺ですが、1581年(天正9年)第二次「天正伊賀の乱」で織田信長の軍勢による兵火で焼かれて、1608年(慶長8年)藤堂高虎が入国以後、当地に移されたと伝えられています。本尊「阿弥陀如来像」を安置し、伊賀市指定文化財「鰐口(わにぐち)」があります。なお、「万福寺」において昔、寺僧が伊賀の土豪らに忍術の指南をしたそうです。また、本堂の斜め前に、1634年(寛永11年)11月7日伊賀越仇討で討たれた「川合又五郎」享年24才の墓があります。



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