斑鳩

法隆寺
  その2

 法隆寺の「五重塔」と「中門」

南大門を入った参道脇の築垣の中には、何れも国宝の客殿(桃山時代)、大湯屋(室町時代)、 そして、新堂(鎌倉時代)等が建ち並んでいますが、参道の正面には、飛鳥時代に建てられ何れも国宝の法隆寺「五重塔」と「中門」が写真の様に見えています。また、参道をちょっと上がって中門の手前に見えている左右(東西)に延びる道を左(西)へ行けば「西大門」で、西大門を出られて、真っ直ぐ400m行けば「藤ノ木古墳」で、右(東)へ行けば「東大門」で、東大門を出られて、真っ直ぐ法隆寺の境内を200m歩くと東院伽藍の「夢殿」から、更にお隣の「中宮寺」へと行く事が出来ますが、この辺りは散策自由です。
法隆寺の国宝、謎の「中門」

 法隆寺西院伽藍の正面が飛鳥時代建立の「中門」です。間口は子孫継ガザル不思議な相で、中央に柱が建つ4間、奥行3間、重層入母屋造、正面中央2間の奥と表に二重の観音扉を設けて、東西両端に天平時代の711年(和銅4年)に造立された国宝の「金剛力士像」が控え、向って右の阿形は塑造、左の吽形は頭が塑造で胸が木造、我が国最古の仁王さんです。また、太い柱はギリシャのパルテノン神殿と同様に中程から下がふくらむエンタシス(胴張り)で、柱の上の雲形肘木(くもがたひじき)と雲斗(くもと)、そして、上層部二階の高欄(こうらん、手摺り)の卍崩し組子や人字形割束に、中国南北時代の様式が見られます。
 西大門前より「東大門」を望む

 写真は、「西大門」の前に立って340m先の国宝「東大門」を見た所です。右側の築垣(ついがき)に建つ門は、築垣と共に国の重文で室町時代に造られた「表門」です。中にやはり重文の大湯屋が在るけど、残念ながら入れません。なお、「表門」前の参道に小さく3本みえる杭は、法隆寺の七不思議の1つ「地下の伏蔵」を示すものです。また、築垣には樋がないけど、法隆寺の七不思議の1つ「境内の地面には雨だれの穴が開かない」と云う言い伝えが有るから、雨天にでも法隆寺へ行かれた時、よく確かめて見て下さい。写真は良く晴れた日の4月10日、桜が満開でした。なお、「西大門」は文化財に指定されておりません。
 法隆寺の国宝「三経院・西室」

「西大門」を目の前にして、境内から外に出ないで右(北)に曲がると、西の茶店が在り、その斜め前に正面5間、側面19間の細長い建物が棟続きで建っています。南側7間が「三経院(さんぎょういん)」で法華、勝鬘(しょうまん)、維摩(ゆいま)の三経を講じ、北側12間が僧房の「西室(にしむろ)」と云われる所です。元々は、西面の僧房(そうぼう)でしたが、平安時代に焼失し、その後やっと鎌倉時代になって、1231年(寛喜3年)に再建されました。法隆寺の国宝「五重塔」や「金堂」を囲む「回廊」の西側に建っているので、「回廊」越しに直ぐ目の前に「五重塔」西面の2階から上の部分が良く見えます。
 法隆寺の国宝「西円堂」

 「三経院」の西側を北へ進んで石段を上がった高台に「西円堂」があります。藤原不比等の夫人・橘三千代の発願で、718年(養老2年)行基が創建して、国宝の本尊「薬師如来(我が国で最大の乾漆丈六の坐像)」を安置し、俗に「峰の薬師」と呼び、今の八角円堂は、1250年(建長2年)の再建で、毎年2月3日ここで節分の晩に行われる「鬼追式」は、太鼓の合図で鬼が伝来の衣装を着け、始に黒の父鬼が経壇に上がって鉞を3回振り回し、その後、沙汰衆が渡す松明を群集に投げ、次に青の母鬼が上がって剣を3回振り回して松明を投げ、更に赤の子鬼が棒を振り回して松明を投げ、最後に毘沙門天が槍を3回しごきます。




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