奈良時代の名僧「行基菩薩」のこと

 近鉄奈良線の終着駅、地下の奈良駅で電車を下りて、東の改札口からエスカレーターで上がって外へ出ると、目前に赤膚焼きの行基菩薩像が東大寺の方を向いて、噴水の中の円錐台座上に立っています。行基は、中大兄皇子が即位して、第38代天智天皇になった、668年(天智7年)河内国大鳥郡蜂田里(今の大阪府堺市家原寺町)の家原寺(えばらじ、元は母の実家)で、百済から「論語」十巻、「千字文」1巻をもって渡来した和邇(わに、王仁)の子孫として生れたが、「日本往生極楽記」2によると、行基は胞衣を着たまま生まれたので、父母が忌み嫌い、彼を榎の木の股に置きました。なお、父は下級豪族の高志才智(こしノさいち、智法君の長子)、母は蜂田古爾比売(はちたノこにひめ、蜂田首虎身の長女)です。


智恵の文殊で親しまれている
行基菩薩誕生の家原寺
三重塔


誕生塚
行基菩薩


 672年(天武元年)6月22日大海人皇子が吉野から挙兵の使いを美濃の安八麿(あはちま)郡の湯沐令(ゆノうながし)・多品治(おおノほむじ)に遣わし、壬申の乱が勃発したのが行基5歳の時で、24日大海人皇子は妻子と共に吉野を発って東国へ向い、従う者は書根麻呂(ふみノねまろ)・書智徳ら極わずか、26日不破(岐阜県)山中で近江側の書薬(ふみノくすり)が吉野側に捕まり、7月23日近江側の大友皇子が山科(京都)の山中で自害し、この冬、大海人皇子が飛鳥の浄御原宮へ移って、第40代天武天皇に即位しました。

 680年(天武9年)4月飛鳥寺(安居院)が官治の例に入れられたのが行基13歳の時、11月?野讃良(うのノさらら)皇后が病み、天武天皇が治病を祈って、薬師寺(本薬師寺)の建立を発願されました。

 682年(天武11年)行基15歳が出家し、24歳で党戒得度を受け、道昭(船氏出身)に師事し、686年(朱鳥元年)9月天武天皇が崩御して、694年(持統8年)行基27歳の時、都が飛鳥から藤原宮へ遷都され、698年(文武2年)10月4日薬師寺の構作がほぼ終って、衆僧が住み、699年(文武3年)正月27日文武天皇・持統太上天皇が難波に行幸し、この時に置始東人(おきぞめノあずまびと)が、次の歌を詠いました。

     大伴の 高師の浜の松が根を 枕き寝れど家し偲はゆ   万葉集巻1−66

 700年(文武4年)道昭72歳が飛鳥寺で亡くなって、遺体を粟原で火葬した後、行基33歳が龍蓋寺(岡寺)の義淵(ぎえん)に法相宗を学んでいた頃、701年(大宝元年)6月1日道君首名が僧尼令を大官大寺に講じて、8月3日大宝律令が成立し、この年、藤原宮子が首皇子(後の聖武天皇)を生み、また、橘三千代が安宿媛(あすかべひめ、後の光明皇后)を生みました。

 704年(慶雲元年)行基37歳は、生家を掃き清めて「家原寺」とし、行基建立初めての寺院で、行基は後に四十九の寺院を建立したが、それらには加えられず、特別な扱いになっている寺院で、706年(慶雲3年)行基39歳の時、蜂田寺(大鳥郡蜂田里)を建立しました。

 709年(和銅2年)春の宵、行基は、千葉県市原郡山倉村堂谷の森の中で、闇夜に光を放つ枯木を見つけ、その枯木で「薬師如来像」を彫り、天台宗医王山「円薬寺」の本尊としましたが、その後も行基は勅命によって、関東を巡錫したので、房総半島には行基に関する寺院が多く、湿津村の「寿福寺」にしばらく滞在し、松ヶ浦に錫を掛け、出津の祇園山「神光寺」に立ち寄り、市原市五井の「光明寺(現在の守永寺)」も行基の開基とされ、市原村寺山「光善寺」薬師堂の薬師如来、姉崎町豊成の「不動院」の不動明王も行基の作で、戸田村風戸の「日光寺」の聖観音像も楠でもって行基が彫ったとされています。

 710年(和銅3年)3月10日都が藤原京から平城京へ遷都され、行基43歳は、薬師寺大安寺(大官大寺)等の南都の諸大寺の移建に貢献したが、711年(和銅4年)9月4日諸国の役民が造都に労し奔亡(ほんぼう)多く、詔(みことのり)が出されて、兵庫に軍営が建てられ、712年(和銅5年)正月16日諸国の役民で帰郷の時に飢える者が多く、国司らが賑恤(しんじゅつ)し、10月29日帰郷の役夫と運脚夫の困難を救う為、郡稻を便地に貯えて交易せられたが、見るに見かねた行基45歳は、貧困に苦しむ民衆に飯を与えて泊める為の施設、「布施屋」を摂津に3つ、和泉、河内、山城にそれぞれ2つ建て、また、生駒山の東側(生駒谷)に僧庵「草野仙房(かやのせんぼう)」を営み、そこで布教活動をしましたが、寺院外でも布教の禁止を破って行ったため、

 717年(養老元年)4月23日行基の民間伝道が僧尼令違反として弾圧されたが、それでも、女帝で第44代元正天皇の御代、721年(養老5年)行基54歳は、平城京右京三条三坊に寺史乙丸より宅を寄進され、そこの地名を取って菅原寺(現在の喜光寺)と称し、それまでの和泉、河内を中心とする活動から、菅原寺を中心に活発な布教活動を行うと、境内に入りきれない難民が溢れました。

 724年(神亀元年)行基57歳は、静岡県田方郡天城湯ヶ島町吉奈へお向き、天城温泉郷七湯の1つ、伊豆の霊泉子宝の湯「吉奈温泉」を発見し、同町に「善名寺(ぜんみょうじ)を創建しました。なお、同寺は 元は曹洞宗でしたが、徳川家康の側室お万の方の子宝祈願に与り、無事に子宝を授けたので、多大の寄進を受け、その時に日蓮宗に改宗されて、現在に至っております。

 726年(神亀3年)聖武天皇の勅願で、行基が南房総最古の寺、関東天台の雄、長安山東光院「石堂寺」の堂宇を建立し、当寺は創建当時、水晶で造られた宝塔が納められていたので、石塔寺と呼ばれ、近江の阿育王山、上州の白雲山と共に日本三石塔寺の1つです。なお、行基は全国を行脚するために我国初の日本地図である「行基図」を作り、後々まで日本地図の原図として用いられ、原図は現存しないけど、江戸時代の中期に「長久保赤水」や「伊能忠敬」が現われる以前の日本地図は、「行基図」を元にしたものと云われています。

 729年(天平元年)行基62歳は、聖武天皇の勅願で、岩船寺を、翌年また天皇の勅願で、瀬戸内海の生口島(広島県瀬戸田町)に光明三昧院(こうみょうさんまいいん)を創建し、731年(天平3年)年明けに行基を慕って春日野に数千から1万にも及ぶ群衆が犇き、733年(天平5年)には地震が続き、疱瘡がまん延しました。

 734年(天平6年)聖武天皇の夢枕に薬師如来が立ち、孝謙皇女永年の病を平癒されたので、勅命によって行基が、富雄川の右岸矢田丘陵の中腹に伽藍を建立することになり、

 736年(天平8年)8月菩提遷那(ぼだいせんな)33歳、仏哲、道?35歳らが難波津に着き、行基69歳ら僧侶99人、治部(じぶ)や玄蕃(げんば)の役人達が雅楽で盛大に出迎え、暗峠奈良街道を通って、奈良へ向う途中で、行基が建立中の伽藍に立寄り、菩提遷那がここは天竺(印度)の「霊鷲山」に似ていると云い、寺号を「霊山寺」と命名しました。

 737年(天平9年)光明皇后の勅願で、行基が千葉県市原市引田「橘禅寺」を創建し、また、千葉県里見村の山中で黄金に光る古木を見つけ、それを掘り出して薬師三尊を刻み安置する草堂を建てたのが、岩問山延命院「東漸寺」の奥の院「岩問山薬師堂」です。また、行基は全国各地の温泉も掘り出し、草津温泉、野沢温泉、山代温泉、山中温泉、有馬温泉など、行基開湯の伝説が数多く残っています。

 738年(天平10年)行基の布教活動を朝廷が認め、彼を「行基大徳」と呼び、その業績を大いに讃え、行基の布教活動を許しましたが、行基は宗教活動の他、社会事業にも精進し、摂津から河内への直道や、橋(摂津に4、山城に2)、大阪狭山市の狭山池、岸和田市の久米田池、伊丹市行基町の昆陽池などの溜池(和泉に8、摂津に6,河内に1)、船溜まり(和泉、摂津にそれぞれ1)造り、摂津から播磨にかけて、河尻泊(尼崎市神崎町)、大輪田泊(神戸市兵庫区)、魚住泊(明石市魚住町)、韓泊(姫路市的形町)、室生泊(たつの市御津町室津)の5つを整備し、行基が海上の安全を祈祷したら、畳2枚ほどの大きなエイが現れたのが明石の江井島(えいがしま)漁港で、堀(摂津、河内にそれぞれ1)、溝(摂津に3、和泉に2,河内に1)、樋(河内に3)などを各地に造り、その他、行基は「興福寺」、「元興寺」および総国分寺「東大寺」の建立に尽力し、生涯に48ケの大寺院を始め、全国津々浦々に寺院道場を約1400も建立したのに、「元興寺」の智光は行基の悪口を云ったので、地獄へ落ちたが、その後蘇生して行基に謝ったと云われ、「元興寺」の屋根は、日本最古の瓦を使用し、行基葺と呼ばれています。

 739年(天平11年)2月26日光明皇后が病んで、大赦があり、病者・僧尼に賑給がなされ、5月23日郡司の数が多く、百姓を侵損するので、その定員が改正され、行基72歳は聖武天皇の勅願で「浄瑠璃寺」を創建し、なお、行基には蟹の恩返しで有名な「蟹満寺」の逸話(*下記注1)など色々多くの伝記があります。

 740年(天平12年)2月7日聖武天皇が光明皇后を伴って難波宮に行幸され、同19日天皇らは平城京へ帰還されたが、この往還のいずれかで河内国大県郡(柏原市)「智識寺」の盧舎那仏を拝し、自分も盧舎那仏を造りたいと考えられ、これが大仏造営の端緒になったと云われ、また、9月3日大宰少式藤原広嗣が上表して、時政の得失を指摘し、天地の災異を陳述の上、僧正玄ムと右衛士督吉備真備の罷免を求めて挙兵したので、大野東人(あづまびと)が大将軍に任命され、同15日「広嗣の乱」鎮圧を祈る為、諸国に観世音菩薩像と観音経を造写させ、10月29日聖武天皇が伊勢に行幸し、11月1日広嗣が斬られ、12月15日天皇が山背国相楽郡の恭仁宮に行幸され、この年行基は、「泉橋院」を建立しました。

 741年(天平13年)3月17日行基74歳は、京都府山城南部の賀世山の東で、恭仁京の正面の木津川に泉橋を架けた時、聖武天皇が「泉橋院」にわざわざ行基を訪ね、同年4月行基は聖武天皇の勅願で、島根県出雲市下古志町「阿彌陀寺」を創建し、なお、出雲市東林本町に大寺(万福寺)を建立して、薬師如来を彫って安置し、また、出雲市塩冶町「神門寺」も開基して、更に出雲市馬木町「光明寺」の「馬木不動尊」は行基が彫って、日本三大不動明王(東京「目黒不動」、千葉「成田不動」と共に)の一つです。

 743年(天平15年)10月15日聖武天皇が盧舎那大仏造営の詔を発せられると、行基は勧進に起用され、弟子を率いて勧進し、744年(天平16年)11月13日紫香楽離宮の甲賀寺で、盧舎那大仏の体骨の柱が建てられましたが、

 745年(天平17年)正月21日行基78歳が聖武天皇から我国初の最高僧階「大僧正」に任じられ、度者400人を賜った後、4月11日紫香楽宮の東山で火事があり、連日滅(き)えず、都下の男女が競って物を川に埋め、聖武天皇は大丘野に難を避け、5月2日諸司の官人に何処を都とすべきかを問い、同4日薬師寺に四大寺(興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺)の僧を集め都とすべき地を問い、大仏造営を一時中止して、同11日都が紫香楽宮から平城京に遷都し、同年8月23日国中連公麻呂を造仏長官にして、山金里(やまがねノさと、現在の東大寺)で大仏造営が再開され、

 746年(天平18年)行基は宿願があって春日神祠に参籠すると、春日明神の夢のお告げがあり、「ここから坤(ひつじさる、西南)の方向に霊地がある。すみやかに精舎を建て、人々を救え」と云われたので、当時密生していた椣(しで)の霊木を以て、一刀三礼(いっとうさんらい、一刀するごとに三度礼拝)しながら、高さ1mほどの本尊「薬師如来坐像」を彫り、聖武天皇の勅許を受け一大精舎を建立し、名付けて椣原山(しではらさん)「金勝寺」と称し、また、聖武天皇より賜った長谷試観世音菩薩像を携えて、これを安置する場所を求め、山陽道を下り、和田岬まで来た時、異光を放つ処があったので、不思議に思い近づくと、地中より薬師如来が出現し、その地を有縁の地と定めて伽藍を創建し、薬師如来と携えて来た観世音菩薩像を共に祀ったのが兵庫区今出在家の「薬仙寺」です。

 749年(天平21年)行基は大僧正の号の上にさらに「大菩薩」の称号を与えられたが、彼は大仏開眼を見ることはなく、同年2月2日夜、菅原寺(喜光寺)で数千のお弟子達に看取られながら、82歳で入寂し、4月8日遺言により生駒山東麓の「往生院」で火葬に付して、「生馬寺(今の竹林寺)」に埋葬され、毎年4月3日「竹林寺」の奥ノ院・「往生院」で「行基忌」が行われ、何故か鎌倉時代の「新勅撰(しんちょくせん)和歌集」に次の、行基辞世の歌が載っています。

    のりの月 ひさしくもがなとおもへども さ夜ふけにけり ひかりかくしつ


(*注1)蟹満寺」の逸話

 「日本霊異記」中巻第八話によると、昔、山城国紀伊郡に生れつき慈悲深い女がいて、7歳の時から法華経を読誦(どくしゅ)し、常に観音菩薩を念じていましたが、ある時、村の牛飼いの子供が蟹八匹を捕って焼いて食おうとしていたので、彼女が着物と蟹を交換して、蟹を助けてやりました。また後に山中で、大蛇が蛙を呑み込もうとしていたので、「お前の嫁になるから、蛙を放しておくれ」と云って、蛙を助けてやりました。

 そして、3日の後、大蛇が彼女に妻になることを要求して来たので、女が行基菩薩に悩みを訴えると、行基菩薩が、「仏・法・僧の三宝を厚く信じなさい」と云われたので、約束の日に女が家に篭り、一心に三宝を敬いお祈りしていると、大蛇が屋根に穴を開けたのに、ドスンと落ちて来ました。よく見ると、大蛇に八匹の蟹が食いつき、八つ裂きにして、昔の恩返しをしました。なお、これらの話は、平安後期の「法華験紀」や「今昔物語集」にも載っています。



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