生駒山周辺と信貴山まで  その1

 宝山寺(TEL 0743-73-2006)の参道

 近鉄奈良線「生駒駅」の西にある近鉄生駒ケーブル「鳥居前駅」からケーブルカーに乗ると、次が「宝山寺駅」で、旅館や土産物店が並ぶ坂と石段の聖天通りを過ぎ、杉木立に灯籠が並ぶ石段の参道を上がり、鳥居と山門を潜ると、商売繁盛生駒聖天さんの真言律宗生駒山「宝山寺」です。役行者が生駒山般若窟を弥勒菩薩の浄土都率天の内院に擬して修行を積み、般若の梵本を窟に納めたのが始りで、役行者を開基とし、後に腐朽が著しかった都史陀山(としださん、般若岩屋山)「大聖無動寺」を、1678年(延宝6年)宝山湛海(ほうざんたんかい)律師が再興し、寺号を「宝山寺」と呼ばれ、鎮守として聖天を勧請されました。
 歓喜天根本霊場「宝山寺」の本堂

 「惣門」を入り、左に「地蔵堂」、右に「鐘楼」を見て、「松の寮」と「橘の寮」の間にある「中門」を入ると、左手に「社務所」、右手に「本堂」が建ち、本尊は1680年(延宝8年)湛海律師が自ら彫った国重文の「木造不動明王坐像」で、口をきっと結び、魔性を威嚇する為に眼を見開らき、七つの悟りを示す髻(もとどり)を頭に七つ乗せ、左側に垂らした太い弁髪で慈悲を象徴し、煩悩を縛り上げて討ち滅ぼす為に、左手に縄、右手に剣を握り、光背は煩悩を焼き尽くす炎が燃えています。本堂の奥に「拝殿」があり、裏が「大聖歓喜双身天王」を安置する「聖天堂」で、裏山が本尊「弥勒の像」を安置する「般若窟」です。
 宝山寺の木造洋風建築「獅子閣」

 「本堂」に向かって右の細い路地を入ると、小さな中庭の北に擬洋風の「獅子閣(ししかく)」が建っています。「中門」を入る時に右手に見えていますが、そこから行く事は出来ません。「五大明王像」等と共に「宝山寺」の重要文化財で、明治17年に第14世乗空和尚の依頼によって大工の吉村松太郎が造立し、お寺には珍しく外部は洋風、内部は洋風の上に和風を取り入れた木造洋風建築で、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)3間、寄棟造(よせむねづくり)の客殿、螺旋(らせん)階段、柱頭(ちゅうとう)および柱礎(ちゅうそ)に施(ほどこ)した菊の彫刻、1階外扉の色ガラスなど細部にわたる装飾は貴重である。
 宝山寺の「般若窟」

 「本堂」「聖天堂」の裏を40m上がった所にある「般若窟」は、7世紀の頃に役行者、8世紀に空海が修行をした岩窟で、そこには役行者が般若経を納めていますが、後に、役行者の昔から生駒山が弥勒浄土の内院と聞いていた湛海も、1682年(天和2年)に岩屋の頂上で大きな五輪塔を見つけ、そこに京都の仏師・院達に彫らせた弥勒菩薩の銅像を安置していますが、しかし、修羅(しゅら)を使って引き上げる時、足場が悪く、人夫達が難渋しなかなか持ち上げる事が出来ませんでした。それを見た湛海が不動明王の三昧に入り大声で呪文を唱えると、人夫達に底の知れない怪力が授かり、いとも軽々と据える事が出来ました。
 「宝山寺の「大師堂」

 なお、都史陀山「大聖無動寺」の開祖、宝山湛海は伊勢国安濃郡一色村の人で、空海の書いた真蹟「宝山寺」が見出されてから、これを当山永世不易の寺号に改め、今日に至っています。また、「宝山寺」には、沢山の堂塔が建ち、「本堂」「拝殿」の所から石段を上がると「文殊堂」「常楽殿」「観音」、更に左へ折れて上がると、昭和32年建立で朱色の「多宝塔」、なお、右へ折れて上がると、「水掛地蔵」の前に昭和42年大阪の篤信者青山氏が建立された「大師堂」があり、更にそこから上が奥の院で、「開山堂」「大黒堂」等があるが、「大師堂」の下から左(東)へ行くと、近鉄生駒ケーブル「梅屋敷駅」の方へ至ります。




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