真言密教、真言八祖八代の空海、弘法大師
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弘法大師・空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国(さぬきノくに、香川県)多度郡(たどノごおり)屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺(ぜんつうじ)」で生まれ、父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通(よしみち)、母は阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、兄二人は幼少に他界し、三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家)の跡取として育てられ、幼名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。なお、6月15日は密経経典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六祖「不空(ふくう)三蔵」が入滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。 |
善通寺御影堂(大師堂)
空海の生まれた屋敷跡 |
善通寺東院にある楠の巨樹
真魚もこの巨樹を見て育った? |
777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しました。
780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思います。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。 781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王が立太子に立ちました。 784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として記載されていますが、この頃、平城京からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。 785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生まれた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。 788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社に黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あとノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めていました。 |
弘法大師修行の地 御厨人窟(みくろと) |
室戸青年19歳大師 の巨像、総高21m |
793年(延暦12年)空海20歳が、和泉国(いずみノくに、大阪府)「槙尾山寺(まきのおさんじ、現在の施福寺、西国三十三ヶ所、第4番札所)」で剃髪(ていはつ)して出家し、高円山の麓にあった岩淵寺で、三論宗の勤操(ごんそう)僧正により得度して、大安寺、元興寺、興福寺、西大寺などで南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・律・華厳)の経典を学ぶと、翌年(延暦13年)10月長岡京が未完のまま放置され、平安京へ遷都されました。 795年(延暦14年)空海22歳は、東大寺で「華厳経(けごんきょう)」、「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」などを学び、また、十輪院で朝野宿禰魚養(あさのノすくねなかい)から書を学びました。 796年(延暦15年)「羅城門」の東に王城鎮護のための官寺「教王護国寺(後に空海が譲り受ける東寺)」と「西寺」が創建され、4月9日この時は空海が退学していた大学寮の上空に5、6羽の不思議な鳥が飛来し、その内の1羽が寮の南、門前に落ちたので、捕まえてよく見ると、鵜の様な鳥で、毛は鼠に似て、背に斑(まだら)な毛があったが、誰も名を知らなかったと、「日本後紀(にほんこうき)」に記載されています。 797年(延暦16年)空海24歳は、三教(孔子の儒教、老子の道教、釈迦の仏経)の優劣を論じた我が国最古の戯曲、国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき、空海の真蹟本として高野山に現存)」一巻を「秦楽寺」で、暑い夏にうるさい蛙を黙らせ、年も押し詰まった12月1日やっと書き上げましたが、この処女作は後の入唐時に持参し、帰国後に序文を改め、十韻の詩の韻(いん)のふみ方など字句を修正して三巻に分けられ、登場人物5人で、三幕一場を構成し、三教の中で仏教が最も優れていることを説き、「三教指帰(さんごうしいき)」三巻に改名されて世に出ました。 なお、空海作の「遍照発揮性霊集{しょうりょうしゅう、編纂は弟子の真済が当り、10巻から成る漢詩文集で、甥で弟子の智泉(ちせん)の夭折(ようせつ、死)を惜しんで書いた法事に用いる願文が巻8に書かれている}」によると、彼は若い頃、好んで山中を歩き回り、「吉野山から南へ1日、そこから更に西へ2日、高野と云う地がある」と書き、空海が唐に渡る以前の無名時代、生駒山や大峯山、玉置山といった山々を巡って激しい修行を重ねましたが、大峯山は古くから修験道のメッカで、今も山岳修行が盛んに行われ、山頂(山上ケ岳)へ至る山道には、修験道の行場(ぎょうば)が沢山点在しています。 800年(延暦19年)富士山が噴火し、早良親王に崇道天皇の追尊があり、801年(延暦20年)坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された頃、空海は「青龍寺」、「戒長寺」で修行し、諸国を行脚(あんぎゃ)の時、錫杖(じゃくじょう)を突き立てると水が滲み出し、「弘法水」と云われる井戸(柾の井、弘法井戸、薬水、弘法の井戸、硯石など)を掘ったが、大和国高市郡の久米寺の東塔の下から「大日経(正式名は大毘盧遮那成仏神変加持経、最も洗練された大乗仏教の立場から印度の諸宗教の一切を統一し包括しようと云う意図で書かれた密教経典)」を見出して読みあさり、いくつもの難解な疑問が残ったので、この上はどうしても唐へ渡らねばならないと、入唐求法の思いが急速に膨らみました。 803年(延暦22年)第16次遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)が還学僧(げんがくそう)最澄らと共に難波津(大阪港)を出航したけど、日本を離れてから嵐に遭い、引き返して来ました。 804年(延暦23年)4月9日空海31歳は、東大寺「戒壇院」で唐の僧・泰信(たいしん)律師を戒師として具足戒を授戒し、桓武天皇から入唐の勅(ちょく)を賜(たまわ)り、「大福寺」で航海安全の祈祷をして、5月12日一般の留学僧(るがくそう)になり、遣唐使の橘速勢(たちばなノはやなり)らと四つノ船の第一船に乗って難波津を出航し、7月6日肥前国(ひぜんノくに)松浦郡(まつうらごおり)田浦(たノうら)から大海へ出て、途中暴風に遭い、舵を取られ34日間漂流の後、8月10日福州長渓県(ふくしゅうちょうけいけん、現在の福建省霞浦県)赤岸鎮(せきがんちん)に漂着し、最澄らの乗った第二船も50日余り漂流して、明州の寧波(にんぽう)に漂着したが、第三船は孤島に漂着の後、命からがら日本へ戻り、第四船は消息不明です。 しかし、予定地の蘇州から余りにも南に離れた福州に漂着した大使藤原葛野麻呂と空海らは、福州の観察使・閻済美(えんさいび)に海賊と疑われ、国書は第二船の副使が持っていて提示できず、大使が書状を書けどもなかなか上陸の許可が得られなかったけど、空海が大使に代って書いた嘆願書が功を通し、やっと一行は使節として認められ、11月福州を出発し、長安(ちょうあん、現在奈良市と姉妹都市の西安市)まで2000kmの道を昼夜兼行して、12月23日都に入り、新年の「朝賀の儀」に何とか間に合いましたが、1月23日皇帝徳宗(とくそう)が崩御し、28日に皇太子が即位して順宗(じゅんそう)皇帝になりました。 805年(延暦24年)2月10日大使藤原葛野麻呂らが長安を発して帰国し、空海は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)ゆかりの古刹「西明寺(さいめいじ、ボタンの名所)」に落着き、学僧円照(えんしょう)と知り合い、醴泉寺(れいせんじ)に居た印度僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)からサンスクリット語(梵語)を、牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)からバラモン教などを学び、6月13日青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院で恵果(けいか)阿闍梨(あじゃり、密教の正統な後続者としての位)に会うと、「そなたが来るのを待っていた。私の生命は尽き様としている。早く伝法の潅頂壇(かんじょうだん)に入るように」と云われ、三昧耶戒(さんまいやかい)・受明潅頂(じゅみょうかんじょう)・胎蔵法(たいぞうほう)の潅頂を授戒し、7月上旬に金剛界潅頂を授戒し、8月10日伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の潅頂を授戒して、真言密教の奥義を伝授され、「遍照金剛(へんしょうこんごう)」の潅頂名を授かりましたが、そもそも、大日経、金剛頂経、蘇悉地経などを拠り所にして胎蔵と金剛の二部を立て、真言呪法の加持力で即身成仏を期するのを本旨とする真言宗は、印度で大日如来が金剛薩埵(こんごうさった)に伝法や灌頂を授け、金剛薩埵が真言密教の始祖初代龍猛(りゅうみょう)に授け、二代龍智(りゅうち)、三代金剛智(こんごうち)と伝授され、唐に入って四代不空(ふくう)が「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」を伝訳して大成し、五代善無毘(ぜんむい)、六代一行(いちぎょう)が「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を筆録して、七代恵果、そして八代が空海で、初代〜八代八祖大師の肖像画は、高野山の「根本大塔」や壺坂寺の本堂(八角円堂)に掲げられています。 なお、恵果は、空海に密教の全てを伝授し、各種の法具や曼荼羅(まんだら、密教で宇宙の真理を現すため、仏の如来や菩薩を一定の枠内に配して図示したもの)を授け終わると間もなく、805年(永貞元年)12月15日60歳で遷化(せんげ、逝去)し、弟子1千人中で6人の受法高弟から空海が選ばれ、「恵果和尚(けいかかしょう)の碑文」を書きました。 また、空海はその名筆を唐帝順宗に知られ、宮殿の壁に文字を書くように云われると、左右の手に筆を取り、左右の足にも筆を挟み、口にも筆を加え、5本の筆でもって王羲之(おうぎし)の5行の詩を同時に書き、更に1間に墨汁をそそぎかけると、たちまち巨大な「樹」の字が浮かび上ったので、皇帝順宗が舌を巻き、空海に「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与え、純金で作った念珠(ねんじゅ)を授けましたが、その念珠は現在高野山の「竜光院」に保管されています。 806年(延暦25年)3月17日桓武天皇が崩御し、第51代平城天皇が即位した年、新皇帝の即位を祝う使節として高階遠成(たかしなノとおなり、真人)らが長安にやって来たので、留学期間20年の短縮を請う書簡を渡して許され、同年(大同元年)4月空海は帰国を前に越州(えんしゅう、現在の浙江省紹興)で経典を求め、8月空海と橘速勢が留学期間を2年に短縮して、遣唐使船に高階遠成らと共に便乗し、帰国の途に着きましたが、その際、空海が明州の港から師より授けられた八祖相伝の三鈷杵(さんこしょ)を空高く投げると、はるか日本の高野山まで飛来し、落ちた所に現在、3本松葉の「三鈷の松」が植わっています。なお、帰りの航海中、恵果の命によって刻んでいた不動明王像を舳(へさき)に祀ると、不動明王が荒れ狂う波を切り開き、航路を鎮め、無事10月四つの船を大宰府へ着岸させましたが、その不動明王は、現在高野山南院の秘仏「波切不動明王像」です。 また、帰国後の10月23日空海が高階真人を通じて朝廷に提出した延々10mにも及ぶ「御請来目録(ごしょうらいもくろく、琵琶湖の竹生島「宝厳寺」に所蔵)」によると、彼が唐から持ち帰ったものは、仏舎利80粒(現在東寺の五重塔と講堂の諸仏の頭部に納められ、天下豊穣のときに増え、国土衰退のときに減る)、経典216部461巻を始め、仏像、曼荼羅などがあり、国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼陀羅図」2幅は「子嶋寺」に残っています。なお、中国で普及し始めたばかりのうどんの製法を修得して帰り、甥で十大弟子の一人智泉(ちせん)に教え、それが今の讃岐うどんの始りで、また、空海が唐から持ち帰ったお茶は高弟堅恵(けんね)に与えられ、「仏隆寺」の辺りで大和茶の起源になりました。 807年(大同2年)空海34歳は、上京の許可が下りないまま筑紫(北九州)の名刹「観世音寺」に2年間も留まって、同年瀬戸内海を通り、都へ昇る途中、安芸の宮島、弥山(みせん)の頂上で護摩を焚きましたが、その灯は延々現在も霊火堂で「消えずの灯」として燃えています。なお、空海は難波津へ上陸の後、和泉国「槙尾山寺」に居を移していた頃、808年(大同3年)5月21日朝廷が旱魃に際し、丹生川上神社に黒駒を奉納すると、23日雨が降ったので、群臣万歳を称して終日宴会を開きました。 809年(大同4年)4月平城天皇が病のため譲位して、賀美能親王(かみのしんのう、第52代嵯峨天皇)が即位し、7月16日やっと太政官符が和泉の国司に下り、空海は許可を得て和泉から入京し、高尾山寺(現在の神護寺)に入り、実慧(じちえ)ら二、三の弟子に密教を教え、弟の真雅(しんが)が讃岐から上京して弟子になり、8月24日最澄から密教経典12部の借覧を初めて請われ(その後請借は16回に及ぶ)、翌年即位まもない嵯峨天皇に書状を送って、国家安泰の加持祈祷を申し出ると、「薬子(くすこ)の変」などで頭を痛めていた天皇は空海の申し出にいたく感動し、空海を重用するようになったので、空海は京都の高尾山を拠点に、嵯峨天皇の庇護のもと、国家鎮護と衆生救済を掲げ、真言密教の布教に邁進(まいしん)するようになりました。 また、この頃、空海36歳は奈良市高樋(たかひ)町の虚空蔵山(標高200m、別名高樋山)に明星が落ちるのを見て、そこに明星天子の本地仏である虚空蔵菩薩を安置して開基したのが高野山真言宗「虚空蔵寺(弘仁寺)」で、虚空蔵山・如意山・高井山などと号し、その奥之院「阿伽水ノ井戸」に空海が三鈷杵で彫った不動尊石仏を祀っています。 810年(弘仁元年)東大寺では僧が蜂に刺されて難儀していたけど、空海37歳が東大寺第14代別当(長官)に就任すると、蜂がいなくなり、今でも東大寺では月2回、空海が唐から持ち帰った密教経典を読み上げます。なお、この頃、空海が自らの「等身座像」を安置し、最初の真言道場としたのが元高野(もとこうや)「大蔵寺」で、また、同年空海が重文の「木造延命普賢菩薩坐像」を刻って、安置したのが、通常「普賢(ふげん)さん」と呼ばれる「常覚寺」で、空海の開基です。 811年(弘仁2年)2月14日空海38歳に最澄が書状を寄せ、密経の伝授を請い、空海は唐から持ち帰った劉希夷集(りゅうきいしゅう)や劉廷芝(りゅうていし)の書を嵯峨天皇に献上し、東宮(後の第53代淳和天皇)に筆を献上して、過って早良親王が幽閉された「乙訓寺」の別当に補任され、翌年(弘仁3年)「乙訓寺」に生った蜜柑を天皇に献上しました。 812年(弘仁3年)11月15日と12月14日空海は高尾山寺に最澄の訪問を受け、潅頂を請われたので、金剛界と胎蔵界の「結縁(けちえん)潅頂」と「学法(がくほう)潅頂」を授けたが、最澄の望んでいた「伝法(でんぽう)潅頂」は授けませんでした。また、空海が高見山で修行をしていると、不動明王が白馬に乗って麓の「清水寺」に降り立ち、境内の滝(投石の滝)に天の玉石を投げたので、「清水寺」は後に「白馬寺」と呼ばれました。 なお、同年藤原北家を冬嗣(ふゆつぐ)が継いで、「どうすれば家運が盛り上がるだろうか」と空海に尋ねると、空海が「藤原氏の菩提寺・興福寺に八角形の堂を建立しなさい」と云い、不空院の八角円堂(1854年安政元年の大地震で倒壊、現在は本堂の下に礎石のみ)を雛型として、翌年(弘仁4年)創建されたのが現在の南円堂で、堂の前に建つ大灯籠の火蓋の願文(がんもん、趣意書)は空海が選び、文字は橘逸勢が書き、その後、藤原氏で北家が最も繁栄したのに、逸勢は藤原北家の良房(よしふさ)の諜略によって、842年(承和9年)「承和(じょうわ)の変」で捕らえられ、伊豆へ流される途中、非業の死を遂げました。なお、逸勢の書いた大灯篭の火蓋の文字は、現在興福寺の国宝館で見ることが出来ます。 813年(弘仁4年)3月6日最澄の弟子・泰範(たいはん)が空海から潅頂を受け、そのまま高尾山寺にとどまり、最澄が比叡山へ帰るように促したが帰らず、泰範は後に空海十大弟子の一人になり、7月朝廷の変化を鎮め、衆生の苦しみを救うため、宮中を始め五畿七道の寺院に国家護持の「仁王般若経」を講読するよう勅命があり、空海がその願文を趣筆し、また、空海が「大峯本宮天川大弁財天神社」に留まって、大峯山で修行中、天川弁財天を「琵琶山妙音院」と号し、一大聖地にした頃、11月23日最澄から書簡があり、真言第6祖不空訳の「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の借覧を云って来たが、9月1日に最澄が著した「依憑(えひょう)天台集」で、不空を天台宗の弟子呼ばわりにしていたので、請借を断り、考えを改めれば、お貸し致しますと云ってやりました。 815年(弘仁6年)空海42歳は奈良県五條市犬飼町で狩場明神と邂逅(かいごう)し、高野山への道案内と道中安全守護のため、明神の使者である白黒2頭の犬を賜りましたが、現在そこに真言宗犬飼山「転法輪寺」が建ち、そこから少し西へ行った奈良と和歌山の県境「待乳峠」で、腫瘍で乳が出なかった女人に、空海が待乳膏を作って与えました。 なお、同年(弘仁6年)空海は、役小角が701年頃(大宝元年頃)開いた河内長野の「雲心寺」で、七星如意輪観音を刻み本尊とし、寺号を「観心寺」と改称しましたが、当寺は観梅で知られ、南北朝時代後醍醐天皇の勅で楠木正成が金堂外陣を造営し、正成が湊川で戦死の時、敵の大将足利尊氏は正成の妻子が身を寄せていた「観心寺」に正成の首を届け、後に第96代後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇が、一時「観心寺」に行宮(あんぐう)し、崩御の後に同寺へ生母阿野廉子(あのれいし)と共に葬られています。 また、同年(弘仁6年)空海42歳が四国遍路を開いたが、今なお、多くの人々を魅きつける癒しの遍路は、発心の道場(阿波)第一番札所・笠和山「霊山寺」から、修行の道場(土佐)、菩提の道場(伊予)、涅槃の道場(讃岐)を経て、第八十八番札所・医王山「大窪寺」まで、空海と同行二人巡礼の道です。 816年(弘仁7年)5月空海が泰範に代り、最澄に啓書(手紙)を書き、泰範が比叡山に帰ることを拒否して後、6月19日空海は高野山に弟子を育成する密教修行の道場を建立することを請願し、7月太政官府(だじょうかんぷ)をもって勅許(ちょっきょ)されました。また同年、空海は、高野山へ上がる途中の雨引山(和歌山県伊都郡九度山町)へ母の為に建立したのが、仏塔古寺十八尊第九番・万年山「慈尊院」で、空海は後に高野山へ移ってから、月に9度母に会いに来ましたが、それが九度山の由来です。 817年(弘仁8年)空海44歳は、真言宗の総本山「金剛峯寺(こんごうぶじ)」開創のため、弟子の実恵(じちえ)、泰範らを高野山に派遣しましたが、空海自身は翌年秋登嶺して、厳冬の中で高野山を整備し、また、空海はこの頃から8年かけて、825年(天長2年)まで、「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ、)」「声字義(しょうじぎ、)」「吽字義(うんじぎ、)」の三部書を著(あらわ)しました。 819年(弘仁10年)高野山で伽藍の建立に取りかかると、樹上に空海が唐で投げた三鈷杵を発見し、なお、石龕中から宝剣を掘出したので、高野山がかつて仏のいた聖地であることを知り、また、水垢離をして建立祈願をしたのが、長谷寺の奥、桜井市笠の閼伽井で、そこに大日如来の化身である不動明王を祀り、それを更に勧請したのが、野迫川(のせがわ)村の「立里荒神社」で、その加護により高野山伽藍を結界しました。 なお、この頃、空海は奈良市雑司(ぞうし、旧東大寺境内)に「空海寺」を開山し、像高4尺8寸の本尊「地蔵菩薩石像」、像高4尺5寸の脇侍「不動明王石像」、および、像高2尺5寸の「聖徳太子石像」を彫って、堂内の石窟に秘仏として安置すると、世俗で「穴地蔵」、「文(ふみ)地蔵」と呼ばれました。 821年(弘仁12年)4月空海48歳は、一人の沙弥(しゃみ、20歳未満の若い僧)と、4人の童子を連れ、故郷の讃岐に赴き、3000人の労務者を使って、3年前に決壊していた満濃池(まんのういけ、周囲21km、貯水量1540万トン、我が国最大の農業用溜め池、灌漑面積4600ヘクタール)をわずか3ヶ月で修築し、その時彼が用いた「余水吐け」の仕組みは、現代のダムにも採用されています。 822年(弘仁13年)平城上皇が空海に従って三昧耶戒(さんまやかい)を受け、入壇灌頂し、空海が「平城天皇灌頂文」を著して、その中で奈良の法相、三論、華厳宗や、天台宗、声聞(しょうもん)乗、縁覚(えんがく)乗の六宗の概略を述べ、それら全てを批判し、密教と他宗の優劣を明確な表現で論じ、東大寺に「潅頂道場真言院」を建立して、国家鎮護の修法を行っていた頃、6月4日最澄が56歳で入滅しました。 823年(弘仁14年)1月空海50歳は、嵯峨天皇に潅頂(かんじょう)を授けて、天皇から東寺(金光明四天王教王護国寺秘密伝法院)を下賜されたので、堂塔を整え、そこを真言密教の根本道場にし、空海自ら大日如来などの五仏、五菩薩、五大明王、六天の計21尊の仏像を束ねて立体曼荼羅を配置して、東寺を国家鎮護の祈祷道場にしました。 |
九条通りに面した東寺の南大門
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右手に三鈷杵、左手に数珠を
持つ弘法大師 (東寺所蔵) |
なお、空海は唐へ共に入唐した橘逸勢、嵯峨天皇と共に「三筆(さんぴつ)」と云われ、筆を択(えら)ばず上手に字を書いたので、ある時、嵯峨天皇の勅命で、大内裏(だいだいり)十二門の内、南面三門と朝堂院正面の「応天門」の額を書くように云われ、書き終えて額を門に掲げると、「応」の字の点を書き忘れていました。そこで彼は、筆を投げて点を打ったが、これを「弘法も筆の誤り」と云います。また、同年4月27日第53代淳和天皇(じゅんなてんのう、桓武天皇の第三皇子)が即位しました。
824年(天長元年)3月17日空海51歳は、淳和天皇から少僧都(しょうそうず、官職)を任命されたけど、4月6日辞退して、庶民のため利他行(りたぎょう、人々のためになる行為)に励み、仏教界を指導し、真言宗の開祖として基礎を確立し、東寺の経営にも心を配りましたが、彼の孫弟子の頃、東寺南大門を入って左右に潅頂院(かんじょういん)と、日本一の高さ(≒55m)を誇って復古的和式に富む「五重塔」が江戸時代に建ち、南北縦に金堂、講堂、食堂(じきどう)が配置されました。 なお、空海は京都の神泉苑(しんせんえん)で「請雨経法(じょううきょうほう)」を修して、雨を降らせ、また、天皇の勅願により、大和神社の神宮寺として、山の辺の釜口(かまノくち)に「長岳寺」を建立し、なお、空海が唐から持参した如意宝珠を埋めた所が如意山(にょいさん)で、室生寺を再興して、真言修法の道場とし、「五重塔」を一夜で建立され、室生寺の末寺も建立して、慈尊院「弥勒寺(大野寺)」と称し、また、當麻寺の「中之坊」に参籠して、授法を授け、同寺の1院を真言宗の道場にして2宗とし、更に、不動明王を安置して「不動寺」を開基しました。 827年(天長4年)空海54歳が大僧都(だいそうず)に任じられた頃、畿内に一滴も雨が降らず、淳和天皇は恒例にしたがい、大極殿の清涼殿に百人の僧を招いて雨乞いに「大般若経」を読誦させ、空海も招かれ、雨乞いの願文に漢籍を引用して書いたことが「性霊集(しょうりょうしゅう)」巻第六に載っています。 828年(天長5年)空海55歳は高尾山「神護寺」を委嘱され、また、12月15日中納言藤原三守(みもり)の私邸を譲り受け、日本初の私学校である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開校し、授業料無料で、貧富の差なく庶民にも、儒教、道教、仏教の総合教育を行い、空海作で我が国初の字典「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」を使い、また、この頃、涅槃(ねはん)経の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」を表した七五調四句四十七文字からなる「以呂波歌(色は匂へど、散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山けふ越えて、浅き夢見し酔ひもせず)」を作りました。 830年(天長7年)淳和天皇が勅を下し、仏教各宗の宗義綱要を撰進するように命じたので、空海57歳は、既に書き上げていた「秘密曼荼羅十住(菩薩が修行の過程でふむ52の階段中、第11〜第20までの階位で、発心住、治地住、修行住、生貴住、方便住、正心住、不退住、童真住、法王子住、灌頂住を云う)心論」十巻と、その略述書「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を資料編として献上しましたが、これにより平安仏教が古い南都の諸宗に対して理論的に優位を確認し、以後我が国の思想・宗教・文化が密教を基調として展開するようになりました。 831年(天長8年)空海58歳は悪瘡(あくそう、悪質なできもの)を患い、その経過が思わしくないので、6月14日「大僧都を辞する表」を奉じ、静養を願い出たが、天皇はねんごろな勅答を与えて許さず、でも病はやがて治りました。 832年(天長9年)8月22日空海59歳は高野山で衆生救済の願いを込め、仏菩薩を供養して懺悔(ざんげ)し、滅罪のための願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」を書き、「万燈華会(まんとうげえ)」を修しましたが、これはその後、年中行事になり、今でも毎年旧暦3月20日の夕方、この世の全ての闇を照らすと云う、1万の灯明が「御影堂」の周りに灯され、人々が空海を慕って全国から高野山に集い、他でも薬師寺で3月、東大寺で12月行われるけど、最初に1万の灯明を灯したのは、744年(天平16年)金鐘寺(きんしょうじ、東大寺の前身)の法会でした。 なお、同年11月12日空海が嵯峨上皇から「弘福寺(ぐぶくじ、川原寺)」を賜ったと、鎌倉時代初期の歴史書「水鏡」三巻に載っています。 833年(天長10年)10月淳和天皇が譲位して、皇太子であった嵯峨上皇の第2皇子が第54代仁明(にんみょう)天皇に即位しました。 834年(承和元年)5月28日空海61歳は弟子達に対し、初の遺誡(ゆうかい)をして、同年11月から空海は五穀を断ち、坐禅観法(ざぜんかんぽう)を好んだと、弟子の実慧が記していますが、空海は弟子達に「私はこの世に生きている期間がもう幾ばくもない、お前達と別れるのは来年3月21日寅の刻だ」と云われ、12月29日空海に後七日御修法(ごしちにちノみしほ)の勅許が下されました。 835年(承和2年)1月8日空海は内裏真言院で、後七日御修法を行い(これは以後恒例となり)、3月15日弟子達に対し、最後の遺誡を終えると、香湯で身を浄(きよ)め、浄衣(じょうえ)を着て浄室に入り、この時以来床座(しょうざ)に上って結跏趺坐(けっかふざ)し、大日如来の定印(じょういん)を結んで弥勒菩薩の三昧に入り、そのままの姿で7日目を迎え、3月21日午前4時、予告通り、寅の刻に深く目を閉じ、唇を堅く結び、金剛定(こんごうじょう、三密金剛の大定)に入定(にゅうじょう)されました。また、同年2月25日母・玉依御前も死去しました。 時に空海62歳、姿は生身(しょうしん)のままで、49日間法楽を捧げましたが、顔色は少しも衰えず、髪も長く伸びたので、50日目に髭を剃って、なおまだ温かい肌を持つ定身を輿に乗せ、弟子達が代わる代わる担ぎ、奧之院の「御廟」まで運び、尊体を石室に納め奉り、高野山真言宗総本山「金剛峯寺」が官寺に準ずる定額寺(じょうがくじ)になり、真言宗年分度者3名の設置を勅許され、空海に大僧正、法印和尚位が贈られました。 853年(仁寿3年)円珍(えんちん、空海の甥、天台宗の高僧で後の智証大師)が入唐して、開元寺に滞在した時、寺主(てらし)の恵灌(えかん)から、「五筆和尚は元気ですか」と尋ねられ、「既に亡くなりました」と答えると、恵灌は酷く胸を打って悲慕し、「あのように才能豊かな方は未だ過っておられません」と申しました。 855年(斉衡2年)円珍が唐の竜興寺(りゅうこうじ)浄土院にいた時、過って青竜寺で恵果に仕えていた義真(ぎしん)や義舟(ぎしゅう)に会うと、彼らは口々に50年前、わずか1年そこそこ唐に滞在した空海を懐かしみ、空海が如何に聡明で、書の達人であったかを述べ、深く崇敬(すうけい)し讃えましたが、円珍も入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、慧運、宗叡ら)の一人です。 866年(貞観8年)我が国で初めて天台宗の最澄に伝教(でんぎょう)大師、円仁(えんにん)に慈覚(じかく)大師の号が贈られましたが、観賢(かんげん、空海の曾孫弟子)の要請により、入定から86年経った921年(延喜21年)空海は第60代醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう、おくりな)を下賜(かし)され、歴代27大師の中、今日単に大師と云えば「弘法大師」を指し、また、大師とは梵語(ぼんご)のシャーストリの漢訳で、偉大な師、優れた指導者という意で、高僧の尊称ですが、ただ「弘法」と云えば、空海が男色の元祖なので、衆道のことです。 また、高野山「奥之院」の手前に、1023年(治安3年)藤原道長が建立した「灯篭堂」があり、堂内で「消えずの火」2灯が燃えていて、1灯は1088年(寛治2年)2月白河上皇が灯明30万灯を献じた内の1つ「白河灯」で、もう1灯は貧者お昭(あき)が自分の髪を売って献じた「貧女の一灯」、また、空海が灯した安芸の宮島「弥山の霊火堂」の法灯(新日鉄の高炉の種火と、広島平和公園の慰霊碑の灯に移す)と共に千年近く燃え続けています。 最後に、長文の御精読に感謝して合掌。 |