役 行 者 の こ と
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役行者(えんノぎょうじゃ)は、続日本紀によると、姓が役公(えだちノきみ)で、名を小角(おづぬ)と云い、634年(舒明天皇6年)8月10日大和国葛木上郡茅原(ちはら)の里、奈良県御所市茅原の本山修験宗大本山・茅原山・金剛寿院「吉祥草寺」で生まれ、父は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかもノあそん)で、加茂役君(かもノえだちノきみ)、加茂間賀介麻(まかげまろ)と云い、又の名を大角(おおづぬ)。母は渡都岐比売(とときひめ)、又の名を白専女(しらとうめ)、刀自女(とらめ)と云って、第25代武烈天皇の御代(6世紀初期)大伴金村に攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘です。 633年(舒明天皇5年)11月1日母が24歳の時、熊野に参詣し、月を飲み込んだ夢を見て受胎しましたが、509年の同じ11月1日第26代継体天皇の皇后24歳は、太陽を飲み込んだ夢を見て、510年8月10日第三皇子(第29代欽明天皇)を出産しました。なお、小角の母が横になった悩ましい像を「吉祥草寺」で安置しています。 |
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JR和歌山線「玉手駅」の北300mに在る本山修験宗大本山「吉祥草寺」は、第34代舒明天皇が創建して、開祖が役行者です。昔は東西4キロ、南北5キロの境内に七堂伽藍が整い隆盛を極め、12箇院の本寺、37箇寺の末寺を有し、寺伝によると役行者が生まれた時、葛城の山野に目出度い時にしか咲かない吉祥草(ユリ科の植物で、蘭に似た花)が咲き荒れ、自ら香精童子と名乗り、大峯の瀑水を汲んで潅浴し、その濯いだ水が大地に滴って井戸になったのが香精童子「産湯の井戸」で、使った「たらい」は「たらいの森」に埋められ、日本霊異記上巻第28によると「役優婆塞(えんノうばそく、出家せず在家のままで仏道に励む半俗半僧の修行者)は、生まれながらに知があり、博学なること当代一にして、三宝(仏、法、僧)を信じ、これを持って業とした」と書かれ、 636年(舒明天皇7年)小角3歳は幼少より天性聡敏で、賀茂氏の子は不動明王の化身、継体天皇の子は観音の化身であると、それぞれの本縁が明かになり、なお、この頃玄奘35歳が7年前に中国国境の関所、玉門関(ぎょくもんかん)を出て、3年の月日をかけ、印度のマガダ国ナーランダー寺院に達し、仏教の三蔵(経・律・論)を漁っていました。 640年(舒明天皇11年)小角7歳にして仏耒に志し、9歳で出家して「役優婆塞」と名乗り、叔父の願行に仏教を学んでその蘊奥(うんおう)を極め、孔雀明王(毒蛇を食べる孔雀の神格神)の呪を体得して、その秘法(孔雀明王を本尊とする真言密教の祈祷法の1つで、あらゆる悪病、毒悪、災害、災厄を取り除くとされる)を自在に駆使し、645年(皇極天皇4年)6月12日朝から土砂降りの雨が降っていた板蓋宮で、蘇我入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らによって討ち取られ、中国では玄奘三蔵が17年の長い旅路を終え、群集に迎えられて、長安に帰着し、 646年(大化2年)第36代孝徳天皇(中大兄皇子の叔父)により大化の改新の詔が出された時、役行者13歳は金剛生駒国定公園の葛城山に登り、「櫛羅(くじら)の滝」や「行者の滝」に打たれ、質素な修行を開始し、藤葛の皮で編んだ衣を着て、松の実を食べていたが、その頃、茅原から葛城山へ日参する役行者を、途中村の街道筋にある「野口神社」の祭神彦八井命(ひこやいノみこと)の後胤で、茨田(まんだ)の長者の娘が見初めて恋に落ちたけど、行者は修行一筋で応じ無かったら、遂に娘は女の一念で大蛇に変身し、悪息を吐きながら行者を呑み込もうと、5月5日穴に隠れて待っていると、ちょうどその時、野良仕事へ行く村人が通りかかり、火を吹く大蛇に驚き、持っていた味噌汁をぶっかけて逃げ帰り、後で村人が来て見ると、大蛇が井の中に入ったので、岩で口を塞ぎ閉じ込め、その後毎年5月5日御所市蛇穴(さらぎ)の「野口神社」では、娘の供養に三斗三升三合の味噌でワカメ汁を作って参詣者に掛け、厄除けをする「汁掛祭」が行われ、体長14mの蛇綱が家々の邪気を払って練る「蛇綱(じゃづな)引き」の後、葛城川畔の「野口神社」の「蛇塚」にトグロを巻いて納められます。 650年(白雉元年)役行者17歳は日夜修行に励んで、当時麻の如く乱れていた人心を救済しようと発願し、翌651年(白雉2年)孝徳天皇が宮を難波(大阪)へ移して、652年(白雉3年)役行者19歳の時、母から「大峯縁起」を相伝され、家を出て長期の山嶽修行に入って「二上山」に登り、攝津の箕面の滝本に一千日こもった後、ある時、生駒山の麓「平群の里」で、清い水がとうとうと流れる小川を見つけ、何処から流れて来るかと山中に分け入り、ごうごうと音を立てて流れ落ちる滝の所で、長さ三丈(約9m)、口から火の様な赤い舌を出し、今にも襲いかからんとする大蛇に出会い、傍らの岩上に立った役行者は右手に錫杖、左手に念珠を持ち、孔雀明王の真言を唱え、カッと睨み返すと、大蛇は一瞬怯えたが、それでも鎌首をもたげて襲いかかり、役行者が素早く錫杖をふるって脳天に一撃を加えると、大蛇は長々と伸び、白髪の老人が現れて「この地は仏の住まう霊地、そなたはここで修業なさるがよい」と告げ、忽然と姿を消し、後に八尺地蔵が静かに立っていました。今も元山上、千光寺「行者堂」に行者が退治した大蛇の骨を安置し、「千光寺」から「鳴川」沿いに下った「清滝」に大蛇が変身した「八尺地蔵」が立ち、 なお、生駒山では、近鉄生駒線「一分駅」から西へ約2キロ登った所で、修行の邪魔をする2匹の鬼、前鬼(雄の儀学)と後鬼(雌の儀賢)を捕らえたが、鬼どもは元々里人に危害を加える荒神で、行者の術により自由を奪われ、日頃雑用にこき使われて、言う事を聞かないと、行者がたちどころに術を用いて縛り上げたので、大人しく感化され、行者の弟子になって身辺警護をしました。今も生駒市鬼取町に無住の鬼取山「鶴林寺」が建っています。 653年(白雉4年)孝徳天皇と甥の中大兄皇子が対立し、皇后・間人皇女(はしひとノひめみこ、中大兄皇子の同母妹)や廷臣を連れて、中大兄皇子が飛鳥河辺行宮へ移ると、一人置き去りにされた孝徳天皇が皇后を馬に見たてた歌を詠って崩御され、 金木つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つるむか 655年(斉明天皇)中大兄皇子の母が重祚して、第37代斉明天皇に即位し、658年(斉明天皇4年)阿倍比羅夫(あべノひらふ)が東北へ遠征して、蝦夷(えみし)を征服したが、661年(斉明天皇7年)正月斉明天皇68歳が中大兄皇子や、大海人皇子を従えて新羅を征つべく出発すると、額田王が万葉集巻1−8を勇ましく詠ったのに、斉明天皇が崩御し、 熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 663年(天智天皇2年)白村江(はくすきノえ)で、日本軍が唐・新羅の連合軍に壊滅的な敗北を喫し、朝鮮から逃げ帰り、翌年唐では玄奘三蔵が経典の翻訳作業20年がたたって、盲目で入滅し、667年(天智天皇6年)3月19日飛鳥から大津京へ遷都する時、額田王(ぬかたノおおきみ)が山の辺の道で振り返って、万葉集巻1−18を詠い、 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや 1ー18 同年12月晦日、役行者34歳は信託によって、翌年熊野から大峯山に入り、百日で金峯山に到達し、山上ヶ岳で蔵王権現の示現(じげん)に出会い、その法力を感得して、一夏九旬の間(4月15日〜7月15日迄の90日)山中の三世の諸仏に花を供え、7月16日金峯山を出て、70日で熊野へ至りました。これが順峰、華供峰、逆峰の始りで、 彼はその後64歳まで順逆三十三度の峰入りを行い、儀学、儀賢を従え、八尺五寸の長身で大峯山中の三重の岩屋に住し、法華経、胎蔵界、金剛界の曼荼羅を持して激しい修行で修験道を確立し、更に前鬼と後鬼の二鬼を連れて、大峰山系「金峯山」の他、生駒山・葛城山・金剛山・笠置山・愛宕山・伊吹山等の近畿、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)等の東北、大山(おおやま)・八菅山(はすげさん、蛇形山)・筑波山・二荒山などの関東、白山・立山などの北陸、伯耆大山(ほうきだいせん)・石鎚山・彦山・阿蘇・霧島の西国の諸霊山で修行をし、その間、大和の茅原(ちはら)寺・金剛寺・吉野寺・地福寺、笠置山の竹林寺や、山城の・海住山寺・御室戸(みむろと)寺等を開基したと、「役行者本記」に載っており、 更に役行者は、霊山等の修行で得た神秘的な力を用いて、衆生救済に携わり、秘符を用いて病気を治した事が、河内の蓮体が著した「役行者霊験記」にあり、669年(天智天9年)藤原鎌足が56歳で亡くなる前、脳を病んだ時、七日間に渡る祈祷で、憑依した狐を落とし、生霊の怨みを鎮め、鎌足の病を治癒しました。なお、670年(天智天皇9年)4月30日 夜半法隆寺が炎上し、一屋(ひとついえ)も余す所が無しになり、671年(天智天皇10年)10月20日大海人皇子が出家し、芋ヶ峠を越えて吉野に入り、12月天智天皇が崩御して、 672年(弘文天皇2年)6月役行者39歳は浄瑠璃・近松半二作「役行者大峯桜」によると、「壬申の乱」で大海人皇子に味方して、前鬼や後鬼、村国庄司、秦連友足、大野大部金連らと共に戦を勝利に導き、9月12日大海人皇子が飛鳥に入り、ひとまず岡本宮に落着き、新たに飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらノみや)を立て、翌年2月27日第40代天武天皇に即位すると、大伴御行(おおともノみゆき)が万葉集で賛美の歌を詠い、 大君は神にいませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ 19−4260 676年(天武天皇5年)「山田寺の塔」が完成、678年(天武天皇7年)12月4日丈六仏の薬師三尊を鋳造し、685年(天武天皇14年)3月25日蘇我倉山田石川麻呂(皇后と異母妹・御名部と阿閉らの祖父)の36年目の命日に開眼供養が行われたが、1180年(治承4年)平重衡が興福寺を焼いたので、1187年(文治3年)興福寺の荒法師が「山田寺」の仏像を強奪し、東金堂の本尊として安置したけど、1411年(応永18年)東金堂に雷が落ちて仏像が転げ落ち、昭和12年「東金堂」修理の際に須弥座の下より「仏頭」が発見され、今は国宝として興福寺国宝館で展示されています。 また、役行者は抜苦与楽の大願を発し、備中国一宮「吉備津宮」へ参籠すると、結願(けちがん)の夜半に虚空蔵菩薩(吉備津本地仏)が示現して、「済世利民すべし」と告げたので、岡山市一宮の天台宗「徳寿寺」を創建し、後に報恩大師が再興して「真金吹く吉備の中山」と歌われ、その辺りに徳の字の付く寺が8つ在り、「徳寿寺」もその1つで、更に役行者が紀州「友ヶ島」の行場を開踏すると、大蛇が海上に現れ邪魔をしたが、行者に退治られ、後大法を行う行者を守護し、島に留まる事を約束したのが異形の神「深蛇大王」で、「葛城」の全てを守護する「二上山」にも「深蛇大王」が留まり、 679年(天武天皇8年)5月5日天武天皇は皇后と共に吉野ノ宮へ御幸して、草壁皇子以下6皇子(高市、大津、川島、忍壁、志貴)に千載の忠誠と結束を盟約させ、万葉集巻1−27を詠い、歌碑は近鉄吉野の駅前広場に建っています。 淑き人の よしとよく見てよしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見 1−27 681年(白鳳9年)役行者は、天武天皇の勅願によって、真言宗室生寺派宀一山(べんいちざん)「室生寺」を開創し、「室生寺」の西の大門として真言宗室生寺派揚柳山(ようりょうざん)「大野寺」も開創しました。 更に、「諸山縁起」に「役行者の熊野参詣の日記」が収録され、686年(朱鳥元年)2月4日役行者は53歳の時、熊野に参詣したが、その際、雄山、紀の川、藤代、逆川、塩屋、切目等で中臣祓や般若心経等によって魔物や穢れを祓って熊野に達し、また、天武天皇の病気平癒を祈って、僧道明(どうみょう)が西の岡(本長谷寺、現在五重塔がある辺り)に三重塔を建立し、法華説相銅板を安置しましたが、9月9日天武天皇が崩御して、10月3日大津皇子24歳が処刑され、689年4月草壁皇子28歳が病死され、 690年(持統天皇4年)元旦天武天皇の皇后46歳が第41代持統天皇に即位し、役行者は日本観光地百選「山岳の部」第1位苅田嶺(蔵王山)の主峰・熊野岳(標高1841m)に登り、金峯山修験本宗・国軸山「金峯山寺」蔵王堂の金剛蔵王大権現を勧請して、山名を「蔵王」としましたが、当山は国定公園の指定を受けた火山で、773年(宝亀3年)の墳火から昭和47年まで47回鳴動しています。 692年(持統天皇6年)11月17日軽皇子(かるノみこ、父は草壁皇子、母は阿閉皇女)10歳が胡(やな)ぐいにびっしり矢を詰めた数十人の騎兵、歩兵を従え、泊りがけで、阿騎野で狩をして、柿本朝臣人麿呂が万葉集4首を詠い、 東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 1ー48 694年(持統天皇8年)12月6日都が藤原宮に遷(うつ)され、女帝持統の輿の後に太政大臣高市皇子、そして持統の異母妹の御名部(みなべ、父が天智天皇)、阿閉皇女(あへノひめみこ、後の元明天皇)、なお、故草壁皇子と阿閉皇女の子達3人、氷高15歳、軽12歳、吉備9歳。また、高市皇子と御名部の子の長屋19歳、鈴鹿。故大友皇子(父が天智天皇)と十市(母が額田王)の子・葛野王らが続き、志貴皇子(天智天皇の第七皇子)が万葉集巻1−51を詠い、 采女(うねめ)の袖ふきかへす明日香風 都を遠み いたずらに吹く 1−51 696年(持統天皇10年)7月10日太政大臣高市皇子(天武天皇の長男、母は胸形君尼子娘)が亡くなり、彼は19歳の時、「壬申の乱」で指揮を仕されて勝利に導き、葬(はふ)りの儀式で「尊(みこと)」の称号を贈られ、柿本朝臣人麻呂が万葉集巻2ー199の挽歌を捧げました。 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の・・・(長歌) 697年(持統天皇11年)8月1日甲子(きのえ、法令などが革まる年)持統天皇が譲位し、孫の軽皇子15歳が第42代文武(もんむ)天皇に即位して、持統太上天皇は天の香久山を見て万葉集巻1−28を詠われました。 春過ぎて 夏来るらし白栲の 衣干したり天の香久山 1−28 699年(文武天皇3年)5月24日役行者66歳は讒言(ざんげん)によって伊豆の大島へ流されたが、「三宝絵詞」中巻によると、役行者が金剛生駒国定公園葛城山系の岩橋山(標高659m)から吉野の金峯山の金剛蔵王権現に教えを受けに行く為、石橋(いわはし)を架けるように葛城神社の祭神一言主命に命じたら、一言主は顔が余りにも醜く、暗い夜しか働かないので、行者が怒って一言主を呪縛し、深谷に押籠(おしこ)めると、行者の弟子・韓国連広足(からくにノむらじひろたり)が、「役行者は世の人々を惑わし、謀反を企てている」と朝廷に告げたので、文武天皇が役行者の母を人質に取ると、孝心の深い役行者は自分から出て来て、難なくお縄になり、配流されました。この話は「日本霊異記(正しくは日本国現報善悪霊異記)」上巻−第二十八、「今昔物語」巻十一、「扶桑略基」、「水鏡」等にあり、石橋は江戸時代後期の「河内名所図会」巻之二にも描かれ、橋の形は表面に橋板状の段が4つ在り、両端が欄干の様にやや高く、幅三尺で長さは八尺(約2.42m)ばかり、西方が少し欠けているが、勢は正に南峰に延び様としているけど、右側はぷっつりと切り取られ、金峯山まで延び様とした先の部分は残っていません。 なお、「岩橋山」は三角点の頂上に標柱が建ち、今は頂上が杉木立に囲まれ、遠望が効かないが、昔は南に金剛山の頂きが見え、東に畝傍山、三輪山が遙かに見え、西方に摂河泉(摂津、河内、和泉)の村々、珍努海(ちぬのうみ、大阪湾)が鮮やかに見渡され、風色いちじるしく、一国の勝景でした。今は岩橋峠から近鉄南大阪線「磐城駅」へ降って行くと、麓に近く杉木立が途切れた辺りで視界が開け、目の前に大和三山の畝傍山が見えます。また、「岩橋山」には「河内名所図会」に描かれた「胎内潜(たいないくぐり)」と呼ぶ巨岩もあり、岩と岩の間で頭を傾け、身を縮めて昔は通ったらしいが、今は無理です。また、「岩橋山」へ登るには、竹内峠からダイヤモンド・トレイルを登ると便利です。 |
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葛城山系の岩橋山頂上
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「胎内潜(たいないくぐり)」と云う巨岩
写真の岩と岩の間を頭を傾けて、身を縮めて昔は通ったそうです。 |
岩橋峠から近鉄南大阪線磐城駅へ降りて行くと、麓に近く杉木立が途切れた辺りで視界が開け、目の前に大和三山の畝傍山が見える。 | |||
所で、伊豆へ流された役行者は、昼間は大人しくしていたが、夜になると富士山へ登って修行をし、遂に飛行術を会得して、あちこち飛び回り、相模の江ノ島の裸弁天の影向(ようごう、神仏の仮の姿)等を拝して、700年(文武4年)配流(はいる)の身である役行者67歳は印度に赴き、金剛三蔵が建立し塔婆に納めた160の仏舎利を日本に持ち帰り「熊野本宮」に安置して、その後「大峯縁起」の相伝者にも3粒ずつ分けましたが、配流地の伊豆では、都から役行者を殺そうとしてやって来た使に対し、使の刀を乞い受け、彼が舌で舐めると、文字が浮き出たので読むと、富慈(ふじ)明神の上表文だったので皆が驚き、使が慌てて都へ帰り、文武天皇に言上して天裁を仰ぎ、 701年(大宝元年)正月、やっと役行者は罪を許され、8月天皇の詔(みことのり)により、田辺史(たなべノふひと)が藤原姓に還(かえ)って、藤原不比等になり、不比等の娘の田辺宮子姫(たなべノみやこひめ)も藤原姓を名乗り、刑部(おさかべ)親王らによって、新しい大宝律令が制定され、30年ぶりに遣唐使派遣の事が審議されました。 なお、「元亨釈書」巻15によると、役行者は、箕面の山中の滝で竜樹菩薩に会う夢を見て、そこに「箕面寺」を建立し、更に「古今著聞集(ここんちょもんじゆう)」巻第2(釈教)によると、役行者多年の念持仏であった金銅一咫半の孔雀明王像が「当麻寺」の講堂に安置されている丈六の阿弥陀如来像の中に込められ、「今昔物語集」によると、6月7日役行者68歳は、母の位牌を鉢に乗せ、五色の曇に乗って唐へ飛んで行き、「日本霊異記」の上巻28によると、道昭(どうしょう)が唐へ行った時に、新羅の五百の虎の要請により、「法華経」を講じていたら、聴衆の虎の中に日本語で質問する者がいて、名を尋ねると「役優婆塞」と名乗ったとか? {注:なお、道昭は、653年(白雉4年)に入唐し、玄奘らに法相宗を学び、慧満から禅を受け、660年(斉明天皇6年)に帰国して、700年(文武天皇4年)に亡くなっているが。} 702年(大宝2年)12月22日持統上皇が崩御して、707年(慶雲4年)6月文武天皇25歳が崩御し、7月文武天皇の母・阿閉皇女(あべノひめみこ)が第43代元明天皇に即位して、710年(和銅3年)3月10日藤原京から平城京へ遷都し、奈良時代になって、732年(天平4年)6月7日役行者99歳は印度に居たと、熊野修験によって編まれた「真福寺(名古屋)」蔵の「役優婆塞事」に載っています。 更に修験者の亀鑑である「修験修要秘決集」の切紙「役行者略縁起事」によると、役行者は大日如来の変化(へんげ)、不動明王の分身で、日本では役優婆塞、中国で香積仙人、印度で迦葉に権化(ごんげ)したと云われ、葛城山では「法喜菩薩」として顕現し、江戸時代後期になって、1799年(寛政11年)正月25日第119代光格天皇より「神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)」の諡号(しごう)を賜ったけど、天皇は父の閑院宮典仁(すけひと)親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたのに、江戸幕府の老中松平定信によって阻まれました。 また、役行者遷化(せんげ、高僧や隠者が亡くなる事)の後、前鬼は吉野郡下北山村に下って「前鬼五坊」を開き、国道169号線沿い池原貯水池に架かる前鬼橋の袂のバス停「前鬼口」から林道を8キロ北へ分け入ると、前鬼の子孫が五鬼(ごき)と称する5ケ所の宿坊(北から深仙の宿跡、小池の宿跡、持経の宿跡、平治の宿跡)を営み、修験者の案内と救済にあたったが、今は小仲坊(こなかぼう)だけが残り、そこは修験道の行場の1つで、大峰山中の行場の中でも重要な場所ですが最も嶮しく危険な場所です。なお、バス停「前鬼口」から「池原貯水池」に沿って南へ行くと、巨大なアーチ式「池原ダム」があり、一気に下ると、堰堤下の河川敷が「下北山総合スポーツ公園」で、再び急斜面のヘアピンカーブを登ると池峰に至り、1m以上の馬鹿でっかい鯉がいる「明神池」です。杉の大木と原始林に囲まれ、鬱蒼とした中に水をたたえた神秘的な池で、池畔に祭神市杵嶋姫命(いちきしまひめノみこと)を祀る雨乞いの池峰大明神「池神社」が鎮座し、ここも役行者が静かな山中の池で幽玄な淵を見て霊気を悟り、神の存在を知って、祠を祀ったのが起源です。 なお、後鬼は奈良県吉野郡天川(てんかわ)村洞川(どろかわ)に下り、大峰山に入山する修験者の温泉宿(今の公衆浴場、入浴料510円)を提供しました。また、行者の石像は大峰山「山上ケ岳」にも在り、すっかり苔むしているが、大淀町へ行くと、役行者一の行場・高野山真言宗・竜王山「泉徳寺」の「今木権現堂」に蔵王権現の石像と、役行者の石像があり、役行者像は左右の膝脇に前鬼、後鬼を従えています。なお、役行者は修験道の祖で、その精神と実践は理源大師聖宝や智証大師円珍に引き継がれ、京都の「聖護院」を中核とする天台宗系の本山派と、「醍醐寺」を中核とする真言系の当山派に別れて、大峰山への峯入りも、本山派は南の熊野からの順峯(じゅんノみね)入りで、当山派は北の吉野からの逆峯(ぎゃくノみね)入りを別々になされています。 |