「磐余(いわれ)の道」と「多武峯街道」  その1

 桜井市発祥の地「桜の井」

 JR桜井線または近鉄大阪線の桜井駅から南へ歩き国道165号を渡って更に南へ進むと、桜井市谷で、ちょっと狭い道路から右(西)へ入ると「桜の井」と云う井戸があります。井の深さは九尺余り、径約二尺二寸、円形に積み上げた石は苔むしていますが、水は水量豊かで鏡の如く澄み、特別の甘味があり、昔から大和の七ツ井の1つで、ここは若桜部氏の祖神を祭る若桜(わかざくら)神社の北にあり、今から約千六百年前、第17代履中(りちゅう)天皇が井のほとりに桜を植えて、清水をめでさせられたので「桜の井」と呼ばれ、この辺りが履中天皇の磐余(いわれ)若桜宮跡とも云われ、ここが奈良県桜井市の発祥の地です。
 式内社「若桜神社(高屋安倍神社)」

 「桜の井」から、また狭い道路に出て、南へ行くと「若桜神社」が狭い道路の右(西)側を上がった奧に鎮座しています。なお、こちらは桜井市市谷で、桜井市池之内の「稚桜神社」と同じ式内社です。祭神は、第8代孝元天皇の長子・大彦命の後裔である伊波我加利(いはがかり)命です。また、当社には、「延喜式神名帳」に記されている安倍氏の氏神「高屋安倍神社三座」も合祀され、三座の祭神は、大彦命、屋主彦太思心(やぬしひこふとしたま)命、産屋主思(うぶやぬしおもい)命で、いずれも安倍氏の祖神です。なお「高屋安倍神社」は、元は「安倍文殊院」の近くに鎮座していたが、江戸時代の初に当所に遷座しました。
 桜井公園「安倍山城址」

  高屋は、舎人皇子によって万葉集で次の様に詠われ

 ぬばたまの 夜霧は立ちぬ衣手の 高屋の上に
 たなびくまでに       巻9−1706

  なお、この辺りが磐余(いわれ)で、神武天皇が磯城(しき)の八十梟帥(やそたける)を征伐しました。更に南へ行き、角を右へ曲がって桜井公園へ登ると、「安倍山城址」、ここでは、1341年(暦応4年)北朝方の細川顕氏が陣を構え、南朝方戒重西阿の戒重城を攻め、1565年(永禄8年)松永久秀もここで布陣し、鳥見山城(外山)の筒井順慶と戦いました。
 芸能発祥の地「土舞台」

 小規模な曲輪跡が残る「安倍山城址」を下りると、直ぐ西側に写真の「土舞台」顕彰碑が建っています。「日本書紀」によると、612年(推古天皇20年)の記事に百済人からの帰化人、味摩之(みまし)が呉(くれ)で「伎楽の舞」を習得したというので、聖徳太子が彼を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、その「呉伎楽舞(くれうたノまい)」を少年達に伝習させた所です。即ち、我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた所で、毎年10月「芸能発祥の地」を記念して「桜井篝能」が催されます。なお、ここへは1772年(明和9年)3月本居宣長が三重松阪から大和、吉野を巡る「菅笠日記」の旅で訪ねています。




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