金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その21

 国の指定文化財「筒井順慶墓」

 近鉄橿原線「筒井駅」の南隣が「平端駅」、駅から北東直ぐの所に、道に面して「筒井順慶歴史公園」があります。戦国時代に大和を統治し、織田信長の命で郡山城を築城した順慶の墓所です。彼は、1549年(天文18年)3月3日に生まれ、翌年6月20日に父の筒井順昭が27歳で病死した時、母尊栄と伯父の頼政が重臣と密議のうえ、父に顔形の似た奈良に住む琵琶法師の木阿弥を替え玉にして、父の寝床に入れ、順昭が亡くなっていないように世間の目を欺き、1年後にやっと父順昭の死を公表して、使命を果たした木阿弥に多額の報酬をやり、元の木阿弥に戻しました。これが、「元の木(杢または黙)阿弥」の語源です。
 菅田(すがた)神社

 「筒井順慶歴史公園」から東へ行って、佐保川の三郷橋を渡り、そのまま真っ直ぐ行って角を曲がると、「菅田神社」です。昔、美しい女神が天理市二階堂の「菅田池」から現れ、大和郡山市八条町の神楽田の所でしばらく休んでから、そこから西の方へ行って鎮座しました。するとそこが一夜にして鬱蒼(うっそう)とした松林になったので、誰云うとなく、その土地を「一夜松」と呼び、今「一夜松天神」「八条天神社」とも呼ばれる現在の「菅田神社」が鎮座する所を大和郡山市八条町字一夜松と云います。祭神は、菅田比古(すがたひこ)命ですが、近世までは、天満天神を祀り、近在の八条村、菅田村、長安寺町の氏神でした。
 フラワーセンター(TEL 0743-59-0075)

 「菅田神社」から「佐保川」沿いに下流へ歩いて、近鉄天理線の踏切を渡り、更に近鉄橿原線の踏切を渡って、南へ行くと、近鉄「ファミリー公園前駅」で、駅の直ぐ前が「浄化センター公園」です。県民の憩いの場で、園内にはプール、テニスコート、野球場等のスポーツ施設を始め、奈良県フラワーセンターや自由広場があります。フラワーセンターには、一棟の温室と、花時計のある庭園にいつ行かれても何らかの花が咲いています。また、自由広場には、昭和63年奈良公園及び平城京跡で開催された「なら・シルクロード博」で、春日大社の参道に展示されていた歴史モニュメント14点中から選ばれた4点が置かれています。
 推古(すいこ)神社

 「浄化センター公園」を横切って西側へ出て、佐保川の「高橋」を渡り、土手を下ると、「推古神社」が大和郡山市額田都北町に鎮座しています。祭神は豊御食炊屋姫命(推古天皇)で、本殿は全長40mの前方後円墳である「推古神社古墳」の上に建てられていますが、盛り土が小規模なため、古墳の様には見えず、なお、拝殿に朱色の文字も鮮やかな額が掛かり、この辺りは推古天皇の出身地で、また、その後の万葉歌人・額田王もこの辺りの出身と云われていますが、「和名抄」によると、額田郷は平群郡六郷の1つで、江戸時代末、大和川沿いの額田部南方の板屋瀬は魚梁船の発着場で、舟問屋や茶店が立ち並び賑っていました。
 額安寺(TEL 0743-59-1128)

 「推古神社」の前から道を渡り額田部(ぬかたべ)の集落へ入ると、真言律宗熊凝山「額安寺(がくあんじ)」です。境外の鏡(明星)池の池島に建つ市文化「宝印篋塔(ほうきょういんとう)」は、1260年(文応元年)建立、境内は、621年(推古29年)聖徳太子創建の学問道場「熊凝精舎」の旧地で、推古天皇の額に悪瘍が生じた時、薬師如来に祈ったら平癒されて、「額安寺」の寺号を賜り、奈良時代に唐から帰国した額田部氏出身の住職第一世道慈律師が、重文「乾漆虚空蔵菩薩半跏像」を安置し、七堂伽藍を備えた大寺でしたが、1499年(明応8年)兵火で焼失し、五重塔は豊臣秀吉が「四天王寺」へ移しました。




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