葛城山および葛城古道  その9

 勝福寺の「笠塔波(かさとうば)」

 「水越峠」からまた国道309号線を東へ下って、「長柄神社」から「葛城古道」をまたちょっと外れて東へ行き、バス停「西寺田」の「公民館」前から南の集落へ入って行くと、低い塀で囲まれ少し判りづらい「勝福寺」があって、東側の田圃の端に「笠塔波」が建っています。この種の「笠塔波」としては、奈良市「般若寺」のものに次ぐ貴重な遺品です。搭身は高さ156cm、方形の石柱の四面に四仏坐像を刻み、方形の笠に宝珠を乗せ、正面に「右志者為口二親之莽而祈自身聖霊」、右面に「文永七年(1270年)五月二日願主妙蓮敬白」とあり、総高2.185m、御所市に残る遺品として、一番古い銘文を持つものです。
 御所市西寺田の「大日堂」

 「勝福寺」から南へ行き、直ぐ左へ折れて西へ行くと、三叉路の角に小さな「大日堂」が建っています。堂内には、向かって左から弘法大師、大日如来、不動明王が並び、大日如来は、1567年(永禄10年)10月15日寺田逆修講により建立されていますが、逆修講は、生前中に予め自分自身の為に仏事(葬儀)を修めて、死後の冥福と、極楽浄土へ行く事を願う講のことで、当時この付近(旧吐田郷)にありました。なお、不動明王は、八大明王(又は五大明王)の1人で、大日如来が一切の悪魔を降伏(ごうぶく)する為に変身し憤怒の相で現れた姿ですが、昭和21年近くを流れる小川の所で子供が拾い玩具にしていました。
 御所市名柄の古い民家の「手押しポンプ」

 また、「龍門寺」の交差点まで戻って南へ進むと、「葛城古道」は、「旧高野街道」でも有り、昔の人は京都、奈良から南下して、吉野川沿いに五條市を通り高野山へ往きましたが、ここ御所市名柄(ながら)は今もその面影を残し、落ち着いた佇まいの古い民家が軒を連ね、大和棟の切り立った屋根にひなびた格子、際だった白壁など、さながら「大和の民家」展です。中でも江戸初期、1632年(寛永9年)に建てられ国重文の「中村邸」は、段違いになった切妻部の鬼瓦に槌紋が施され、「手押しポンプ」が玄関横の庇(ひさし)の下に吊り下がっています。また、手前の「久保家」、向かいの「末吉家」も江戸中期の建物です。
 御所市南郷の「住吉神社」

 古くても美しい民家が並ぶ名柄(ながら)を通って南へ抜けたら御所市佐田で、葛上中学校の横を通って更に南へ真っ直ぐ進み、次の三叉路の所を右折して、少し上りの道を行くと御所市南郷で、大きく右折する角の所に小さなお社の「住吉神社」が建っています。御祭神は、日本書紀で、新羅征討の時、息長帯比売命(おきながたらしひめノみこと、神功皇后)の身に添って守った上筒之男(うわつつのおノ)命、中筒之男(なかつつのおノ)命、底筒之男(そこつつのおノ)命ら四柱神で、白鳳年間に大阪の住吉大社の分霊を勧請して、昭和の御大典記念に社格昇進され、昭和5年5月神苑模様を行い拝殿と社務所を創建されました。
 極楽寺(TEL 0745-66-0145)

 「住吉神社」から南西へ向い、県道30号御所香芝線に出て南へ向うと、高台に浄土宗仏頭山「極楽寺」があります。951年(天暦5年)興福寺の一和の開基で、鎌倉後期に林阿が中興、1614年(慶長14年)焼失して、中世に領主吐田(はんだ)氏の信仰があり、別名「吐田寺」と称し、本尊「阿弥陀如来」。なお、昔眉輪王(まよわのおおきみ)が父の敵・安康天皇を殺し、葛城一族の円大臣(つぶらのおおきみ)の館に逃げ込んだが、そこを安康天皇の弟・第21代雄略天皇が襲撃し、二人は焼き殺されたけど、それを裏付ける様に、焼失した巨大な建物跡が当寺の近く、「ヒビキ遺跡」から平成17年2月に出土しました。




奈良観光表紙に戻る  葛城周辺散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む