葛城山および葛城古道  その12

 高鴨神社(TEL 0745-66-0609)

 「蜘蛛窟」からまた田圃の畦道まで出て、「高天彦神社」を背に鬱蒼とした山道を通って下ると、万葉の道、「葛城古道」ですが、灯籠がぽつんと建つ車道を通っても出られます。そこらでちょっと後ろを振り返ると、北東に大和国中(くんなか、奈良盆地)が一望され、大和三山の「畝傍山」が可愛く聳え、また、南へ向うと、「葛城の道、歴史文化館」が在り、右隣が捨篠(すてしの)に鎮座する大和、葛上郡17座の1「高鴨神社」です。鳥居の右横に梵鐘「時の鐘」が在り、石段の上に建つ国重文の「本殿」は、室町時代の代表的建築で檜皮葺、1543年(天文12年)に再建され、中央に唐破風を付けた「三間社流造」です。
 高鴨神社(たかかもじんじゃ)の本殿

 主祭神は、大国主命の第1子・阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねノみこと)で、その妹の下照姫命(したてるひめノみこと)と、下照姫の夫天若日子命(あめノわかひこノみこと)を祀り、「古事記」によると、高天原の天照大神(あまてらすおほみかみ)が大国主命へ国譲りを催促する為の二番目の使者として、豊葦原の中つ国へ使わしたのが天若日子で、彼は下照姫を娶(めと)り、8年経っても高天原へ帰って来なかったので、雉の鳴女(なきめ)を見に行かせると、天若日子が鳴女を矢で射殺し、その矢が跳ね返って天若日子の胸に当たり、彼も亡くなったが、天若日子と阿治須岐岐高日子根は容姿がよく似ていました。
 高鴨神社の境内摂社「東神社」の石垣

 亡くなった天若日子と間違われた阿治須岐高日子根は、汚らしいと云い、剱で喪屋(もや)を切り、足で蹴飛ばしましたが、その後、彼は「迦毛(かも)の大御神(おおみかみ)」とも呼ばれ、古代の豪族「鴨」氏一族の租神です。また、神武天皇東征時、熊野から大和まで道案内をした八咫烏(やたがらす)の子孫が賀茂県主(かもノあがたぬし)と云う山城「鴨」氏、葛木「鴨」の分家で、全国に数多在る賀茂社の総社が「高鴨神社」です。なお、葛城の地は神話の故郷で、金剛山、葛城山を昔は2つ合わせて「葛木の山」と呼び、麓に古代豪族「葛城氏」と「鴨氏」がいました。また、「東神社」の石垣は灯籠形に積まれています。




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