「大和三山」と「長寿道」の辺り  その12

 「畝傍山」と「蘇武(そぶ)橋」

 「今井寺内町」の南西に位置する「春日神社」から所々で見られる今井町の「くいちがいの町筋」を通り「今井寺内町」を横切って、正反対の北東へ出ると、朱塗りの「蘇武橋」が「飛鳥川」に架かっています。約1400年前、聖徳太子が太子道を通って、斑鳩宮(生駒郡斑鳩町)から橘宮(明日香村)へ通った時に渡った橋です。橋の袂に、聖徳太子が馬を止めて水を飲ませたと伝える「蘇武之井」が今も残っています。また、橋の袂には推定樹齢400年の榎(えのき)が植わり(写真の右)、樹高11m、幹周り4.2mで幹に大きな空洞がありますが、樹勢はいたって旺盛で今でも多くの実を付け、秋に大量の葉を落とします。
 正蓮寺「大日(だいにち)堂」

 「飛鳥川」の「蘇武橋」から川に沿って下流へ行くと、「橿原市小綱町」で、東西に伸びる「初瀬街道」の北に真宗興正派成等山「正蓮寺(しょうれんじ)」があります。境内の国重文「大日堂」は、方三間・寄棟造、本瓦葺、室町時代の建築で、前面一間を礼拝堂とし、後方二間の内陣後方寄りに4本の柱で囲まれた厨子を設け、本尊として鎌倉時代の作で国重文「大日如来坐像」を安置し、檜材寄木造・総漆箔、半丈六を超える高さ1.34mの大像です。なお、簡素なお堂ですが、不要な飾りを一切しりぞけて、間取り等も実用的に造られている点がかえって奥ゆかしく、風格があり、文明10年(1478年)の棟札があります。
 旧村社「入鹿(いるか)神社」

 また、「大日堂」は明治初年に廃寺になった真言宗仏起山「普賢寺」の本堂で、その斜め前、東南部の一段高い所に現在「入鹿神社」が西へ向かって鎮座しています。当社は、元神宮寺で今廃寺の「普賢寺」の鎮守社で、古くは「牛頭天王社」と称し、祭神に素戔鳴命(すさのおノみこと)と蘇我入鹿(そがのいるか)を祀り、市指定文化財の本殿は、一間社春日造、身舎が丸柱、柱上に三斗を組み、背面を除く頭貫桁間(かしらぬきけたま)に中世風の面影を残す蟇股(かえるまた)を置き、屋根は桧皮葺で、棟は箱棟に千木(ちぎ)、かつお木を取付けた江戸初期の建物ですが、近年老巧化が進み、昭和61年解体修理を行いました。
 旧村社「人麿(ひとまろ)神社」

 「大日堂」及び「入鹿神社」から更に北へ行くと、橿原市地黄(じおう)町で、集落の北西へ向かうと、「人麿神社」が鎮座しています。葛城市新庄の「柿本神社」から分祀したと伝えられ、江戸時代以降、「人丸神社」・「柿本人麻呂大明神社」と称していたが、重文の本殿は一間社隅木八春日造の小社殿で、棟木に「康永4年(1345年)」の墨書銘があり、この時代の建築様式の特徴がよく現れ、蟇股(かえるまた)や木鼻(きはな)等の細部の意匠も優れています。建立当初は、屋根が厚板葺で、隅木が無かったけど、後世の修理によって改変を受け、脇障子が身舎前柱の位置に移る等し、現在見られる様な形になっています。
 旧村社「宗我都比古(そがつひこ)神社」

「人麿神社」から東へ行って「飛鳥川」を渡ると、近鉄「大和八木駅」ですが、近鉄大阪線の西隣の駅が「真菅(ますが)駅」で、駅のすぐ南、曽我川の東岸に宗我坐(そがにいます)「宗我都比古神社」が鎮座しています。近世に「入鹿(いるか)神社」と称し、祭神に曽我都比古神と曽我都比売(そがつひめ)神を祀り、木造神像が二体あります。神社周辺は古代豪族蘇我氏の拠点と考えられ、社伝によると、女帝の持統天皇が蘇我氏一門の滅亡を哀れんで、母方の祖父・蘇我倉山田石川麻呂の次男徳永内供に紀氏を継がして内供の子永末に祖神奉崇(ほうすう)の土地を賜い、社務と耕作を行わしめたのに始まると云われています。
 八木町「札(ふだ)の辻(つじ)」辺り

 近鉄「大和八木駅」から東へ国道24号線を超えて更に200m東へ行くと、南北に延びる幹線道が昔の中(なか)街道(下ッ道)で、中街道を南へ200m行くと、東西に延びる昔の伊勢街道(横大路)で、交差点の辺りが「札の辻」です。中世には興福寺付属の「八木中買座」や「鳥餅座」等、多くの座が結成されて、「八木市」が立ち、江戸時代には高札場で、そのかたわらで市が開かれ、1688年(貞享5年)4月11日松尾芭蕉も「笈(おい)の小文(こぶみ)」で八木の宿に一泊して、句碑が公民館の前にあります。

 草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花 芭蕉
 小房観音寺(TEL 0744-22-2212)

 「中街道」を更に南へ行って、「国道165号線」とJR桜井線「畝傍駅」東側の踏切を渡ると、橿原市南八木町から小房(おふさ)町に入り、「飛鳥川」の手前に高野山真言宗別格本山「観音寺」があります。通称「おふさ観音」と呼ばれ、本尊が「十一面観音」で、体の健康に、開運厄除け、子授け、ボケ封じ等さまざまな願い事をかなえてくれます。また、当寺の境内では、イングリッシュローズを中心に約1000株の薔薇と約400種のハーブ等、何時行かれても四季折々の草花を観ることができ、花曼荼羅(はなまんだら)の寺として有名です。なお、当寺の入山は、7:00〜17:00、年中無休で、入山料は無料です。
 おふさ観音寺「円空庭」の白亀

 「小房観音寺」の本堂の裏へ廻ると、回遊式の庭園「円空庭(えんくうてい)」があります。1650年頃(慶安年代)この地にあった「恋が淵(鯉が淵)」の畔を村の娘「あふさ」が通りかかり、白亀の背に乗った観音様が霧の中に浮かんでいるお姿を見ました。そこで小房観音寺中興の上人、蜜門了明僧正の命で補修されたのが「円空庭」の池で、石組に小堀派の遺構が見られ、そんなに大きくない池なのに、大きな錦鯉と仰山の亀がいて、亀は幼い時に「銭亀」と云われ、成長してから20cmにもなる「石亀」で、甲羅(こうら)は白くなく、暗褐色ですが、池の水が泥水なので、甲羅干しをしたら白く見え、総て「白亀」です。
 国特別史跡「藤原宮の大極殿跡」

 「小房観音」から真っ直ぐ西へ4キロ行った「安倍文殊院」までの道を「長寿道」と称し、途中に「藤原宮跡」があります。694年(持統8年)〜710年(和銅3年)まで16年間、持統文武元明天皇の三代に渡る都で、約900m四方を大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に3ケ所ずつがあり、塀の中に天皇が住む内裏(ないり)、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院、そして役所等が建ち並び、藤原宮最大の「大極殿」は、正面9間(45m)、側面4間(20m)、基壇を含む高さが25m、ここで天皇が出御して大宝律令の制定等、我が国の律令体制の基礎を築いたが、平城遷都の翌年、不審火で殆どが灰燼に帰しました。
 畝傍山(うねびやま、標高199m)

 「奈良盆地」の南、橿原市に緑の眉形をした美しい3つの山がそれぞれ正三角形の頂点に位置する大和三山の、畝傍山、耳成山、香久山で、遠く万葉の昔から人々の心を捕らえ、万葉集に数多く詠まれています。写真は「藤原京跡」から見た畝傍山(畝火山、雲根火山)で、俗にお峰山、慈明寺山とも云い、三山中で最も高く、表面は松の緑で覆われ、中腹まで緩い傾斜をなしているが、頂上付近は急傾斜で、山麓に橿原神宮の他、県営の野球場や陸上競技場、体育館等の施設があり、橿原公苑になっています。なお、西側の山麓に鎮座する「畝火山口神社」は、昭和15年まで山頂に祀られていて、「おむね山参り」が大変盛んでした。
 耳成山(みみなしやま、標高140m)

 写真も「藤原京跡」から見た「耳成山」で、今から約1千万年前から数百万年前(地質時代で新生代第三紀)に「畝傍山」と共に、室生の山々や二上山が噴出した頃、火山活動によって出来た山で、頂上付近には地下のマグマが地上面に出て、急に冷えた時に出来る「安山岩」が見られ、幅約1mmぐらいの褐色または黒色の縞模様があり、余りはっきりしない粒状の白い石で出来ています。なお、耳成山(耳梨山、耳生山、耳無山)は青菅山(あおすがやま)、天神山とも呼ばれ、また、江戸時代には「梔子山(くちなしやま)」と呼ばれ、今でも梔子山の木が多く、古今集で「口なし」の枕詞に「耳なし」を用いている歌があります。
 天香具山(あまノかぐやま、標高152m)

 天から降ったと云われる「天香具山(天香久山)」は、この山だけ「天ノ」と飾り言葉が付くが、畝傍、耳成の美しいトロイデ形火山に対し、吉野竜門山塊の末端で平べったく盛り上がり、他の二山に比べて低く見えるけど、山麓が既に標高80m程あり、耳成よりも高く、頂上付近は地下の深所でゆっくり冷やされたマグマが地殻変動で隆起し、地表に出て来た深成岩の花崗岩からなり、金剛、葛城、生駒山、三輪山等と同様に生成され、持統天皇も万葉集で詠っています。

 春過ぎて 夏来たるらし白栲の衣干したり
 天(あま)の香具山        巻1−28




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