山の辺の道  その21

 長岳寺の盛衰

 写真のお堂の裏側に宝形造、銅板葺、向拝付で長岳寺の信仰の中心である弘法大師空海さんの木造座像と不動明王を安置する「大師堂」が在って、1848年(嘉永元年)の再建ですが、そもそも長岳寺は、創建以来、応仁の乱では松永久秀の兵火で焼かれ、その又約30年後、1503年(文亀3年)にも炎上して、1580年(天正8年)頃には300石あった寺領を秀吉に没収されたけど、1602年(慶長7年)8月徳川家康が由緒を尋ねて寺禄100石を寄せ、境内地45町歩を付し、朱印地としましたけど、明治初年の廃仏毀釈で荒廃しました。でも、民間に深く根ざした大師信仰により寺運を取り戻し今日に至っています。
 龍王山(標高585.7m)

 「長岳寺」の裏の山が「龍王山」で、写真に写っている長岳寺のポールの真上で一番高い所が、16世紀大和の有力豪族である十市遠忠(といちとおただ)によって築かれた「龍王山南城本丸跡」で、その左側の少し突き出た一段低い所が「北城本丸跡」です。城は奈良県に残る城跡として信貴山城に次ぐ規模で、最大級に含まれ、廓を尾根筋に沿って1列に築いた連郭式山城の形態をもつ南城が古く、後から築かれた北城は本丸の廻りに廓(くるわ)を配置した環状式山城で、石垣の跡も各所に残っています。なお、十市遠忠の子遠勝が、1568年(永禄11年)7月末に殆ど抵抗する事も無しに「龍王山城」を秋山氏に渡しました。
 龍王山城(十市城)跡

 松永久秀方の武将、秋山氏にいとも簡単に十市城が落とされたのは、信貴山城の松永久秀の家来が、城の東、藤井村の子守に城の水源地を聞き出して、試しにレンゲの花を摘み、それが流れて行く方向を見定め、城の水を断ったら、断水により落城しました。その後天理市の藤井町ではレンゲの花に実がのらなくなり、時には花さえも咲かないことが有ります。なおその後松永方に渡った「龍王山城」も、織田信長によって、1577年(天正5年)10月10日松永久秀が信貴山城で爆死させられると、「龍王山城」も織田方の手に渡り、その翌年あえなく破却されましたが、今でも中世に築かれた土塁、石垣等の遺構を残しています。




奈良観光表紙に戻る  山の辺の道散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む