南山の辺の道  その5続き

 大神神社の御神体「三輪山」

 三輪の語源は古事記によると、昔大和盆地に住んでいた活玉依毘売(いくたまよりびめ)が夜毎に通って来る男によって、とうとう懐妊しましたが、その男の正体が判らず、ある時、男の着物の裾に麻糸を付け、その糸を辿って行くと、糸は鍵穴を抜けて青垣をなす円錐形の威容のある山の社に達して、そこには大蛇が髑髏を巻いてました。このことから男が大物主大神である事が判り、また、糸が三勾(さんこう、三巻)程残ったので、その土地を「三輪」と名付られました。なお、古事記、日本書紀で、大物主(おおものぬし)大神となっている三輪の祭神は、出雲造神賀詞で云う因幡の白兎で有名な「大国主神」の事で、同神です。
 大美和の杜の「展望台」からの眺め

 「狭井神社」下の大きな木の鳥居をくぐって出て、南へ向うと直ぐ「大神神社」ですが、ちょっと西へ向って小高い丘(柿山)へ登ったら、万葉の歴史的な風土と四季の草木に彩られた大美和の杜の「展望台」です。「大美和の杜」は、広さ約17平方メートルで、昭和60年に開園され、展望台からは東直近に秀麗な三輪山の稜線を仰ぎ、また西真下には大神神社の大鳥居と共に見晴るかす、大和三山がバックに金剛、葛城の山並を従えて左から「天の香具山」、「畝傍山」、「耳成山」と並び、真西に「二上山」をバックにした大和平野の展望は、古(いにしえ)の日本(やまと)国を偲ばせる憩いの場として、格好のポイントです。
 久延彦(くえひこ)神社

 大美和の杜の「展望台」から来た道を下りず、そのまま尾根伝いに西へ向かうと「久延彦神社」ですが、尾根の途中から北へ下りると「大美和の杜」の広場に出られます。また、学業の守護神、智恵の大神として知られる「久延彦神社」は、御祭神が久延彦の神で、居ながらにして世の中の事をことごとくお知りになる智恵の大神で、大神神社の祭神大物主神、少彦名神と同時に出現され、神代からここに鎮座されています。とわ云っても「久延」とは、「崩(く)え」の事で、久延彦は、天下の事を雀から聞いてよく知っていますけど、身体が崩れ、歩行不能な案山子(かがし)で、古事記では、山田の曾富騰(そほど)と云いました。
 大直禰子(おおたたねこ)神社

 「久延彦神社」の石段を下りて、右へ折れ西へ向うと、「若宮さん」と呼ばれる大直禰子神社(若宮社)が鎮座しています。祭神は大物主神の子孫大直禰子命(大田田根子)で、第10代崇神天皇の御代、神託により堺から大神神社の初代の神主として召され、大神(大三輪)氏の始祖です。なお、奈良時代後半の創建で、鎌倉時代に再建された重文の「社殿」は寺院風の入母屋造ですが、当社は奈良時代に大神(おおみわ)寺、鎌倉時代に大御輪寺(だいごりんじ)と呼ばれた神宮寺(じんううじ)で、現在聖林寺に安置されている国宝の本地仏「十一面観音」を祀っていたが、明治の神仏分離で神社に成り、例祭は毎年4月8日です。




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