金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その4

 新木山(にきやま)古墳

 「大納言塚」のある箕山町の南側が新木町で、陵墓参考地に指定されている「新木山古墳」があります。丸山古墳とも呼ばれる大型の前方後円墳で、墳丘は、南南西に前方を向け、全長122.5m、後円部の径67m、前方部幅75m、周囲に馬蹄形の濠を巡らしていたけど、現在は墳丘の西北部に県道9号奈良大和郡山斑鳩線が通り、北西から西側が破壊されて、数基あった陪塚もすべて消滅し、今はありません。かって「新木山古墳」からは、勾玉類が出土したと云われていますが、面白い事件では、1863年(文久3年)8月天誅組が五条代官所を襲撃した時、郡山にも攻めて来る噂が伝わり、古墳上に大砲が据えられました。
 大和郡山の金魚(写真は、琉金)

 新木(にき)、西岡、天井(てんじょう)の3町を中心とした辺りは金魚池が広がり、養殖家数200戸以上で生産品種20種類の金魚を、年間数億尾も生産し、全国一の金魚生産地です。そもそも郡山の金魚は1724年(享保9年)柳沢吉里が郡山城に入城した時、家臣横田又兵衛が観賞用の金魚「珊瑚樹魚(さんごじゅぎょ)」を持参したのが始まりで、士族の内職として、1830年頃より盛んに飼育され、幕末大阪の商人から蘭鋳(らんちゅう)を手に入れてから広く世間の知る所となり、1862年(文久2年)高田屋嘉兵衛が安芸から獅子頭(ししがしら)を入れ、その養殖に力を注ぎ、その優雅な姿をオランダと名付け、郡山金魚(Goldfish )の代表としました。
金魚資料館(やまと錦魚園、TEL 0743-52-3418)

 また、明治4年廃藩置県により士族のある者は金魚養殖を本業とし、さらに一般農家にも奨励して、集団的養魚場ができ、大量生産時代を迎え、大正2年北陸本線が全線開通するまでは、郡山から徒歩で金沢から能登辺りまで、一荷の桶を担いで売り歩かれました。その間、明治36年の米国セントルイス博覧会に小松春鄰が郡山金魚を出品して、諸外国からも注目され、これら江戸時代から続く金魚養殖に関する資料等は、「新木山古墳」の直ぐ西南にある「金魚資料館」で、9:00〜17:00、無料で展示され、20種近い和金、洋金を飼育し、また、金魚飼育法に関する書もあり、月曜がお休み(月曜が祝日の時は営業)です。
 「新城宮址」の「新城(にき)神社」

 「金魚資料館」から東へ行き、南に見えるこんもりとした木立の中、新木町字東垣内に「新城神社」が鎮座し、当地は、676年(天武天皇5年)11月この地に都を移そうとして、天武天皇が行幸され、また、774年(宝亀5年)8月光仁天皇が「新城宮に幸給(みゆきたま)う」とある「新城宮址」に比定されている所で、明治3年に社号を「牛頭天王」から「新城神社」に改め、祭神は、八俣(やまた)の大蛇(おろち)を退治した素盞鳴命(すさのおのみこと、牛頭天王)、大日霊貴命(おおひるめノむちノみこと、天照大御神)と、大巳貴命(おおなむちノみこと、大国主神)で、扁額は郡山城主柳澤保光堯山公の自筆です。




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