金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その3

 永慶寺(TEL 0743-52-2909)「山門」

 郡山城南門跡より鰻堀池と鷺池の間を通って、東の近鉄郡山駅から西へ向かう矢田通りの方へ行く途中に黄檗(おうばく)宗、竜華山「永慶寺」があります。1705年(宝永2年)柳澤吉保が甲斐国山梨郡岩窪村(今の甲府市)に菩提寺として創建し、1724年(享保9年)3月その子吉里が郡山城へ国替えの時、郡山へ移しました。なお、市指定文化財「山門」は、切妻造、黒塗り、本柱の一方に脇戸が付き、一方に板壁が付いた極めて素朴なたたずまいを見せていますが元郡山城の南門を移築したもので、お城の建物として現存する唯一の遺構です。また、市指定文化財として柳澤吉保、同夫人坐像、保山筆扁額などがあります。
 浦上キリシタン配流記念碑

 「永慶寺(えいけいじ)」から南の矢田通りに出ると、大和郡山カトリック教会(城南町)があり、その敷地内に「キリシタン配流碑」が建っています。明治元年、長崎浦上キリシタン約2800名が名古屋以西10万石以上の19藩にあずけられ、大和郡山藩にも明治2年の暮、14家族86名が配流され、北茶町の雲幻寺(現在の良幻寺)にあずれられ、まもなく町内各所に移され、初めは藩主柳澤保申の好意で他藩より待遇が良かったが、明治4年太政官の巡察使が来て、注意を受け、その後待遇が一変して、幼少年は奈良へ移されて軽労働を、他の者は天ノ川銀山に送られて労役を強いられ、明治6年開放されるまで続きました。
 市文化「大納言(だいなごん)塚」

 大和郡山カトリック教会から南へ行くと、箕山町に豊臣秀長の墓所「大納言塚」があります。豊臣秀吉の弟秀長は大和、和泉、紀伊、河内で114万石を支配し、1591年(天正19年)1月22日兄秀吉に先だち51歳で没して、遺骸がここに葬られています。なお、秀長の最終官位が大納言だったので、その墓を大納言塚と云い、徳川幕府になってから塚は荒廃し、菩提寺の大光院は、京都大徳寺の塔頭として移され、塚と位牌は新中町の春岳院(しゅんがくいん)に託して、荒廃を嘆いた春岳院の僧栄隆が修復を発願したが間もなく亡くなり、後は弟子訓祥によって、1777年(安永6年)整備され、五輪塔も建てられました。




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