金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その9

 石碑「興正(こうしょう)菩薩誕生之地」

 「売太神社」鳥居前の道を東へ行って、国道24号線へ出たら南へ行き、バス停「発志院西」でまた東へ細い道を入って行くと、道の右(南)側に石碑「興正菩薩誕生之地」が建ち、菩薩の叡尊(えいそん)は、1201年(建仁元年)添上郡箕田(今の白土町)で生まれ、11歳で家を離れ醍醐の叡賢に師事、17歳で剃髪して、後に東大寺に入り、また海竜王寺にも住み、西大寺へ移ってから同寺を復興する。1267年(文永4年)般若寺も復興し、文永・弘安の蒙古来襲に際し、「東風を以って兵船を本国へ吹き送り、来人を損なわずして所来の船を焼失せしめ給え」と祈り、1290年(正応3年)西大寺で享年90歳で入滅。
 浄福寺(じょうふくじ)

 「興正菩薩誕生之地」の石碑が建っている所から、更に東へ進んで、左(北)側の白土(しらつち)町の集落へ入って行くと、興正菩薩(叡尊)の銅像を安置している浄土宗、智光山「浄福寺」があります。なお本堂の本尊は「阿弥陀如来像」で、お寺は1592年(文禄元年)順玄が創立しましたけど、他の由諸は、よく判りません。また、叡尊の銅像は、彼の700年忌法要に際し、西大寺の「愛染堂」に安置されている寿像を模して造られ、本堂の東隣のお堂に安置されています。叡尊はまた、高野山で密教の奥義を極めて、西大寺では戒律復興を志し、後に弟子の忍性らと供に諸寺の復興、仏像の修復、難民の救済等をしました。
 伝承「業平姿見の井戸」

 「浄福寺」の東隣が「白坂神社」、祭神に日本武尊(やまとたけるノみこと)を祀っています。また、「白土町」の集落から南の車が頻繁に通る道に出て東へ進み、突き当たって右(南)へ真っ直ぐ行き、「西名阪自動車道」の下を過ぎると、道路に面して「地蔵寺」の前に「業平姿見の井戸」があります。在原業平が在原寺(天理市櫟本)から高安(大阪府八尾市)の女のもとへ通った時、自分の姿を映した井戸です。左横に「蕪村の句碑」が建っています。

 虫鳴くや 河内通いの小提灯   与謝蕪村




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