金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その19

 京谷康信著「かたぎり」の「親子塚」

 「小泉城趾」から東南へ行き、富雄川を渡りバス停「小泉」から更に東南へ行くと、JR大和路線「大和小泉駅」に突き当たりますが、「小泉城趾」から東へ行くと、富雄川へ出るまでに「親子塚」があります。摂津(大阪府)高槻藩士高木大助の妹「歌」が、京都見物をして、若い武士と知り合い、子を宿し、男の子を産んで亡くなり、その子が養父村川兵大夫に育てられて村川兵蔵と名乗りました。ある時、有馬の湯で、養父兵大夫が明石藩士瀬川藤太郎にあやまって切られましたが、1613年(慶長18年)6月18日大和小泉で藤太郎こそ養父の仇であり、また実父と判り、実父39歳と子の兵蔵17歳ともども自害しました。
 市場の「楠(くすのき)地蔵」

 「親子塚」からちょっと南へ行って、「富雄川」の「小泉橋」を渡った橋のたもとに吹き放しの堂があり「楠地蔵」が建っています。お地蔵さんと云っても、富雄川の下流から逆さに流れ着いた「名号板碑」で、高さ6尺5寸、幅2尺5寸、厚さ1尺程の楠の化石に「南無阿弥陀仏」の六字名号が彫られ、「天正二年甲戌(1574年)十一月十五日」の刻銘があります。また、もう1つ脇に小さな石地蔵が立ち、こちらにも「天明八戌甲(1788年)正月二十四日」の刻銘があり、光背の右が淡赤く色付いています。これは昔、この前で相撲を取っていた子供に地蔵が倒れ、子供の腸が飛び出し、その時に亡くなった子供の血痕です。
 金輪院(TEL 0743-52-3710)

 「小泉橋」から東南へ行くと、JR大和路線「小泉駅」ですが、橋をまた渡り「富雄川」沿に上流へ辿ると、天台宗尭山山「金輪院(こんりんいん)」があります。小泉藩主片桐貞昌の時、家臣で茶人の藤林直良(宗源)が創建し、小泉氏の祈願寺で、本尊は貞昌の父貞隆が家蔵の什器を焼き捨てた時、灰の中から出て来たと、大徳寺玉舟和尚の筆による縁起「宗鐇記」に描かれている秘仏「青面金剛夜叉尊絵像」で、60年に一度「庚申(こうしん)の年」に開扉され、また、「庚申堂」は「一国一宇」大和の庚申さんの総元締めで、小泉の庚申さんとして、初庚申には大般若経が転読され、門前市が立ち、多くの参詣者で賑わいます。
 慈光院(TEL 0743-53-3004)

 「庚申堂」から更に北へ行って、県道9号大和郡山斑鳩線に出たら、左(西)へ曲がり、少し行くと右に茶道石州流発祥之寺、臨済宗大徳寺派円通山「慈光院(じこういん)」です。玉石を敷いた参道を上がって「一之門」を入ると、更に片桐旦元の摂津茨木城から移築された茅葺の中門(茨木門)があり、中に重文で柿葺の茶室や茅葺の書院が建ち、名勝及び史蹟の庭園もあり、1663年(寛文3年)9月24日片桐且元の甥で、石州流茶道祖として名高い片桐石見守貞昌が60歳の時、亡父貞隆慈光院殿の菩提を弔う為、京都大徳寺185世玉舟宗幡を開山として創建し、大刈込みの生垣越に大和青垣の連峰や奈良盆地が見えます。
 慈光院の数ある重文の1つ「独座手水鉢」

 小泉藩2代目藩主片桐石見守貞昌は、宗関公とか、石州と呼ばれた大名であり、茶人でもあります。母が今井宗薫の娘で、母方の祖父が今井宗久です。石州の茶の系は、千利休〜千道安〜桑山宗仙〜片桐石州で、石州が宗仙から学んだのは、1627年(寛永4年)から約5年の間で、石州の茶会の初見は、1634年(寛永11年)正月17日彼30歳の時、この頃から郡山城主松平忠明や伏見奉行小堀遠州らと茶会を供にしています。なお、石州の「侘びの文」で、「数寄に叶ふべき道具」として、釜炉にも風呂にも用ふべを、1.炭斗ふくべ、1.墨跡、1.茶入黒塗棗(なつめ)1.茶碗楽焼、1.花入竹の筒、と記しています。




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