室生と大和富士周辺  その12

 宗祐寺(TEL 0745-82-0029)

 「札の辻」から旧伊勢街道「青越え道」を東へ行くと、今も昔の面影を残す町屋が並び、街道の北側奧に融通念仏宗・良栄山「宗祐寺(そうゆうじ)」があります。581年(敏達天皇10年)蝦夷数万の大軍が飛鳥に来襲し、その際、8歳の聖徳太子墨坂の地に一時非難され、無事を得たので、同年8月奏請勅許を得て、608年(推古天皇16年)毘沙門天を勧請され、多聞院を開基して後、1131年代(天承年間)融通念仏宗開祖良忍上人が太子殺生戒のこの聖地を訪ねて融通念仏宗になり、1559年(永禄2年)織田信長の家臣服部宗祐が住職の時、信長の支援で「宗祐寺」と改称しました。境内に芭蕉の句碑があります。
 椋下神社(TEL 0745-82-4429)

 「宗祐寺」から更に旧伊勢街道を東へ行くと「椋下(むくもと)神社」が街道脇に鎮座しています。祭神は高倉下命(たかくらげノみこと)で、「古事記」によると、神武天皇東征の砌(みぎり)、皇軍が熊野で荒ぶる神の毒気に当って気を失った時、天つ神が高倉下命に剣を下さり、その剣が倉板に突き刺さっていたのを、高倉下命が献上すると、剣の霊威で皇軍が生き返りました。なお、その剣は後に「石上神宮」に祀られ、また、高倉下命はその功により、702年(文武天皇の慶雲2年)に「八咫烏神社」と共に福地山(高倉山)の山中に祀られたましたが、いつの頃かさだかではありませんけど、当社も現在地に鎮座しました。
 奈良県指定史跡「奧ノ芝1号墳」

 「椋下神社」から更に東へ行くと、「ひのき坂」の住宅地で、その中ほどに「ひのき坂古墳公園」があり「奧ノ芝1号墳」が見られます。かって、この周辺に南北に延びる細長い尾根があり、尾根上に4基の古墳からなる「奧ノ芝古墳群」「福地城遺跡(古墳時代の住居跡、中世の城跡)」があって、なお、「奧ノ芝古墳1号墳」は、尾根東斜面に造られ、径10m程の円墳で、南に開口して薄い流紋岩質凝結凝灰岩(通常榛原石)をレンガ状に積み上げた磚積(せんづみ)の両袖式の横穴式石室をもち、この様な石室は、奈良県では桜井から宇陀地方の限られた地域に数基分布し、全長6.3mの石室から須恵器、土師器が出土しました。




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