山の辺の道  その10

 「石上神宮」の重文「楼門」

 石上神宮の「楼門」は棟木の墨書により、文保二年(1318年)創建で、一間一戸の入母屋造桧皮葺、総円柱、一重は二手先で、蟇股や木鼻に特徴があり、二重は和風の三手先です。なお、祭神「平国之剱」は神武東征で皇軍が熊野の神によって当てられた毒気を抜くのに武甕雷神から神武天皇に下された神剱で、初代神武天皇即位の後、功績により物部氏の先祖宇摩志麻治尊(うましまじノみこと)に与えられ、長く宮中で祀られていたのを、第10代崇神天皇7年の冬、大和朝廷の守護職だった物部伊香色雄(いかがしこお)に命じて、石上邑「布留御魂の社」に「布都御魂大神(ふつノみたまノおおかみ)」として奉斎し、また、祭神「布都斯御魂」は素戔鳴尊が出雲の斐伊川で八岐大蛇を退治した天羽羽斬剱(あめノははぎりノつるぎ=十握剱、とつかノつるぎ)で、第16代仁徳天皇の時、備前国から「石上神宮」へ移され、他に国宝で、神功皇后が369年(泰和4年)朝鮮征伐で百済から献上された七支刀(ななつさやノたち)もあります。
 石上神宮の国宝「拝殿」

 元々石上神宮には、本殿も拝殿もなかったが、大正2年高庭の後に神殿が建てられ、高庭の前の「拝殿」は、1081年(永保元年)白河天皇が皇居の神嘉殿(しんかでん)を移した物です。なお、祭神の神剱は瑞垣(みずがき)に囲まれた聖域「神籬(ひもろぎ)を立てた禁足地の高庭」に埋められていたのを、明治17年当時の宮司・菅政友氏が掘り出すと、環頭大刀柄頭、勾玉、管玉などが出土し、現在それらは重文です。また、境内には詠み人知らずの万葉歌碑もあり、

 石上布留の神杉神びにし我やさらさら
 恋にあひにける  巻10−1927
 石上神宮の摂社「出雲建雄神社」

 楼門の前を上がった所に木の鳥居が建ち、石上神宮摂社で式内社の「出雲建雄神社」が建っていますが、祭神の出雲建雄神は、素戔鳴尊(すさのおノみこと)が天羽羽斬剱(あめノははぎりノつるぎ)で退治した8本の尾を持つ八岐大蛇(やまたノおろち)の尾から出て来た神剱、天叢雲剱(あまノむらくもノつるぎ)の御霊で、今を去ること千三百年前の天武天皇の頃、636年(朱雀元年)布留川の上日谷に瑞雲が立勝る中、神剱が光を放って現れ「今此の地に天降り、諸の人を守らん」と宣言し直ちに鎮座されました。なお、天叢雲剱は、その後に日本武尊が東征の時、火攻めに合い草を薙払って、「草薙剱」と名を変えています。




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