奈良南西部 西の京  その2
 大安寺の国重文「馬頭(ばとう)観音」

 「大安寺」の「本堂」の裏(西)側に「嘶(いななき)堂」が建っています。安置されている本尊は、「馬頭観音(千手観音立像)」で、従来より「くせ直しの観音」として信仰され、桧の一木造、六臂を有し、忿怒の相好で双蓮華座を踏みわけて立っておられます。なお、「本堂」の前方に建つ鉄筋コンクリートの「讃仰殿(収蔵庫)」には、高さ1.676mで、桧の一木造、台座まで彫り出し、八臂の「不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像」を中心に、向って右に「聖観音立像」、左に「楊柳(ようりゅう)観音立像」が並び、四方に「四天王立像」四躰(特に増長天と広目天は、その作が優秀と認められ)が安置されていて、いずれも奈良時代(天平)末期に作られた国重文で、彫刻史上「大安寺様式」として高く評価されています。また、元は「興福寺」の「北円堂」の安置仏で、今は「興福寺国宝館」に安置されている国宝の「木心乾漆四天王立像」の4躯は、修理銘から、当所「大安寺」で作られた像であると考えられています。
 大伴家持の「万葉歌碑」と、「讃仰堂」

 なお、大安寺境内に万葉歌碑、巻20ー4468がありますが、768年(神護景雲2年)に早良皇子が大安寺「東院」の別当になり、770年(宝亀元年)父の白壁王が光仁天皇になった時、親王号を贈られ、10年後に天皇が崩御し、同母兄の山部親王が即位して、第50代桓武天皇になると、親王も皇太子になって、大伴家持が東宮大夫で近侍し、3年後に長岡京の造営が始り、785年(延暦4年)9月23日深夜、造営の見回りをしていた藤原種継が暗殺されて、その嫌疑で、早良親王が淡路島へ流される途中、乙訓寺で餓死し、同年8月に亡くなっていた大伴家持も陰謀に荷担した角で、墓をあばかれ家宅捜索を受けました。
元石清水八幡宮「八幡神社」の中門

 大安寺の「南大門」を出て、そのまま真っ直ぐ南へ進むと、道の左(東)脇に 大きな石が高さ1mほど積まれた台座の上に碑が建っていて、明治32年奈良近在53村の屎尿闘争を取り仕切った熊凝治郎左衛門の功績が刻まれています。その隣が大安寺の鎮守で、855年(斉衝2年)行教が豊前国(ぶぜんノくに、大分)宇佐八幡宮から勧請された「八幡神社」です。「辰市(たついち)八幡宮」、「子安八幡」とも称して、祭神は第14代仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の親子3柱で、安産祈願の神とされています。東西に延びる参道をうっそうとした木立が囲み、表門を入った写真の「中門」は四脚門で、奈良市指定文化財です。
史蹟大安寺塔阯(西塔)

 大安寺の鎮守「八幡神社」の直ぐ南に「大安寺」の塔址が2基あります。昔「大安寺」には、黄金造りの「七重ノ塔」が東西に建っていましたが、両塔の光は眩しく生駒山を越え、ちぬノ海(大阪湾)まで届き、海が余りにも明るくて魚が獲れず、怒った漁民が大挙して大安寺を襲い、焼き討ちをかけ、塔を燃やしてしまいました。それからやっと、ちぬノ海でチヌ(黒鯛)が獲れる様になったそうです。なお、塔の跡に礎石が残っていますが、明治初期に不届きな石工が、お金に換えようとして礎石を割ると、中から真っ赤な血が噴き出し、石工は正体不明の病により亡くなったので、それ以来、礎石に手を掛ける者は誰もおりません。




奈良観光表紙に戻る  西の京散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む