奈良南西部 西の京  その1
大安寺の北にある「杉山古墳」

 近鉄またはJRの奈良駅から大安寺行、北神殿行、 白土町行、シャープ前行のバスに乗り、 大安寺バス停で下車し、西へ徒歩10分行って南へ曲がると大安寺の東門ですが、途中で南へ曲がらず、もう少し西へ行き北へ曲がって大安寺公民館の所から、平長屋の民家の前を通って 東へ進むと、写真の様な柵が在り、その中に奈良市東部で最大規模の前方後円墳「杉山古墳」 が在ります。全長120mで、前方部と後円部をつなぐくびれた部分から葺石(ふきいし)が発見 され、元は古墳全体を石で覆っていたのではないかと推定され、また、周濠は水のない空掘であった ことも確認されていますが、ここは過去に大安寺の境内の一角でした。
 推古(すいこ)天皇社

 「大安寺」への参道の東側に「推古天皇社」が鎮座しています。祭神は日本初の女帝、第33代推古天皇で、名を額田部、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめノみこと)と云い、彼女は554年第29代欽明(きんめい)天皇の第3皇女として生まれ、母は蘇我堅塩媛(そがノきたしひめ)、18歳で第30代敏達天皇の皇后になって、皇后は眉目秀麗な美人だったと伝えられ、異母兄第32代崇峻天皇崩御の後、皇位を巡ってさまざまな動きがあったけど、592年12月8日豊浦宮において即位し、翌年4月10日聖徳太子に皇太子・摂政を委ねられて政治を行い、在位36年で、628年小墾田宮にて75歳で崩御されました。
大安寺(TEL 0742-61-6312)の「南門」

 南都七大寺の1つ「大安寺」は、聖徳太子が平群の額田部に創建された熊凝(くまごり)精舎が起源で、以来、百済大寺、高市大寺(大官大寺)と遷寺し、平城遷都に伴い、716年(霊亀2年)平城京左京六条・七条四坊の地に移建して、唐から帰朝した道慈律師により「天下太平万民安楽」から太と安を取り寺の名を「大安寺」と改め、「南大寺」とも称し、奈良時代の寺域は法隆寺の3倍、六条大路を挟んで南北五丁、東西三丁の大安寺式伽藍を誇り、門も今よりも大きく正面5間(約26m)、奥行き2間(約10m)で、平城宮の正門「朱雀門」と同じ様な重層の「南大門」が、凝灰岩製で壇上積の基壇の上に建っていました。
高野山真言宗別格本山「大安寺」

 奈良時代887人の僧と伴に白壁王も住して酒歌に興じ、また、三論宗に精通の道慈を始め、菩提遷那、道叡、勤操らの高僧が当時の仏教界をリードし、平安時代空海、最澄もここで修行され、発掘で留学僧が持ち帰った陶枕(とうちん、唐三彩の陶器の枕)が出土しているが、平安末〜鎌倉時代、南都諸寺が相次ぐ兵火に見舞われ、当寺も1017年(寛仁元年)ほとんど焼失し、後に大徳寺開山、東大寺の僧で「大安寺」別当に就任した宗性により堂塔の修造がなされたが、中世末すかり衰退し、今は当時の面影はないけど、旧境内全域が国史跡で、今の堂宇は明治時代以降の物、本尊「十一面観音立像」、脇侍「弘法大師像」です。




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