「大塔町」から平家落人の里「野迫川村」と「高野山」  その8

 根本大塔(TEL 0736-56-3215)

 なお、「大塔の鐘」は空海が発願し、第二世真然の代に完成したが、度々焼失して三度改鋳され、今の鐘は、1547年(天文16年)鋳造で、直径7尺(約2.12m)、重量1600貫(約6トン)、「高野次郎」と呼び、今も1日5回、計108つの鐘の音を響かせ、また、「金堂」の右斜め後ろに高野山のシンボル、朱色も鮮やかな「根本大塔」が建っています。816年〜887年頃、空海と真然僧正の二代に渡って完成したが、今の根本大塔は、昭和12年の再建、高さ48.5m、一面約22m、内陣にはそれぞれ極彩色で、中央に本尊「胎蔵界大日如来」、四方に金剛界四仏が安置され、周囲16本の柱には、堂本印象画伯が描いた十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に顕しています。なお、壁には、八祖大師(真言密教の始祖龍猛、二代龍智、金剛智、善無毘、一行、不空、七代恵果、八代空海)が描かれ、北側に江戸後期の作で本来は中門の脇侍仏、多聞天と持国天も大塔に仮安置され、平成8年10月外壁の塗り替えが完了しました。
 御影堂(みえいどう)

 「金堂」の後ろが、弘法大師が唐から帰国時に投げた「三鈷」が落ちた所で、高野山伽藍建立のきっかけになった3本松葉の「三鈷の松」が植わっており、更にその後ろに「御影堂」が建っています。元は、大師の持仏堂でしたが、今は、真如親王が描いた「大師の御影」を祀り、建物は1847年の再建で、最も尊厳を尊ぶ御堂です。旧暦3月21日の前日・御逮夜に、年に一度だけ内拝ができます。御宝号は、南無大師遍照金剛。また、伽藍はサンスクリット語のサンガ・アーラーマの音訳で、僧侶が集い修行をする閑静清浄の所で、大伽藍に「愛染堂」、「三昧堂」、「智泉廟」、「准胝堂」、「孔雀堂」、「山王院」等もあります。
 高野山金剛峯寺の国重文「大門」

 根本道場の「大伽藍」を出て、更に西へ700m行くと、バス停「大門前」の角に高野山の総門「大門」が建っています。本来は南海高野線「高野山駅」から3キロの所ですが、「野迫川村」から来たので参詣の順序が逆になったけど、ここが聖地と俗界の境で、江戸時代迄は女人禁制でした。なお、空海が在世中は鳥居を用い、朱塗りの門になったのは平安末期で、その後3度焼失し、再建は1697年(元禄10年)高野山24カ村から延べ5500人を動員して、敷地の造成から始められ、7年がかりでなされ、五間三門開き楼門造、高さ25.22m、間口21.45m、奥行8m、仁王像は、浪速の仏師「法橋運長」の作です。




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