日本最古の地名、忍坂街道、額田王の里  その2

 旧村社「宗像(むなかた)神社」

 「茶臼山古墳」から国道165号線を東へ100m行くと、バス停「外山(とび)」で、更に約100mで南側に「登美山鎮座宗像神社」が鎮座しています。創建は天武天皇の子高市皇子(たけちノみこ)で、祭神は、高市の母(胸形尼子娘)の実家の宗像三神(多紀理毘売命、市杵島比売命、田寸津比売命)を祀り、境内の入口に向って左に「能楽宝生(ほうしょう)流発祥之地」の石碑が建っていて、当地は大和猿楽(やまとさるがく)四坐の1つ、外山座のあった所で、宝生流は、元伊賀国にいた世阿弥の弟・宝生蓮阿弥が大和へ来て、外山の地を領してから興ったものと云われています。また、道の北側に「不動院」があります。
 真言宗「不動院」

 「宗像神社」から国道165号線を渡らず、国道の下をくぐって北側へ出ると外山の集落で、直ぐの所に真言宗「不動院」があります。本尊は、平安時代後期の作で、県文化の「木造不動明王坐像」です。像高が85cmで、左目を閉じ、頭頂に沙髻(しゃけい)をあらわして平安後期の不動明王の姿を表しています。像は、桧材を用いた寄木造で、現状は古色を呈しているが、それでもまだ製作当初の華麗な彩色をとどめており、条帛(じょうはく)の背面部や裳(もすそ)の一部に切金文様が認められます。二重円相を透かした火炎光背と、七重の瑟々座(しつしつざ)が揃う王朝様不動明王像の本格作は奈良県下でも珍しい像です。
 延喜式内社「忍坂山口坐神社」

 「不動寺宗」から更に国道165号線を東へ行き、バス停「宇陀が辻」を過ぎた三叉路を右へ曲がると、国道166号線に変わり、バス停「信夫が丘」の次の信号を右(西)へ入ると、こんもりとした森か見えて「忍坂山口坐神社」が鎮座しています。延喜式内社の山口神社は、全部で14社あり、その内13社が奈良県下にあって、中でも式祝詞(しきのりと)に示す、飛鳥、石寸、忍坂、長谷、畝傍、耳成の6山口神社が最も大切に祀られてきましたが、今はわずか253坪程、さして広くもない神域になってしまった境内で、元禄二年(1689年)と元禄六年(1693年)の二基の石灯籠が僅かに古風の面影を残しております。
 「忍坂山口坐神社」の大クス(楠)

 また、「忍坂山口坐神社」の境内には一際目を引く桜井市指定「大クス」の巨樹が植わっています。推定樹齢600年、樹高30m、幹周り7.85mで、根元から2mほどの所で二股に分かれ、空洞はなく今も樹勢はいたって旺盛で、大きな枝を20m四方に伸ばしています。なお、この木は二代目で、初代の楠は、室町時代の1397年(応永4年)将軍足利義満が、京都北山に金閣寺を建てる際に、天井板を一枚張りにしたいと云って広く探した所、柳本藩領だった旧敷島村赤尾の当社にある楠を供出することになりました。その際、伐り倒した木の先が隣の忍坂まで届いたので現在も忍坂に「木の下」と云う地名が残っています。




奈良観光表紙に戻る  周辺地図を開く  前のページに戻る   次のページに進む