日本最古の地名、忍坂街道、額田王の里  その3

 延喜式内社「忍坂生根神社」

 「忍坂山口坐神社」からまた国道166号へ戻り、ちょっと南へ行って、左(東)へ入ると「旧道」で、今は「近畿自然歩道」です。忍阪の集落を南へ辿ると旧道の左側に「生根神社」が鎮座しています。本殿はなく忍阪山の一部が神体山です。祭神は、少彦名命、境内に陰陽石が一基あり、宮座も古風な形を伝えて、頭屋の記録「忍坂庄神事勤帳」も室町時代、コロンブスが米国を発見した1492年(延徳4年)からあるが、この辺りは神武東征時、宇陀から峠を越え土蜘蛛八十建(やそたける)を征伐した忍坂大室屋の伝承地で、意紫沙加宮(おしさかノみや)の地とも云われ、継体天皇が磐余玉穂宮で即位する前に住んだ所です。
 桜井市忍阪(おっさか)「玉津島神社」

 村社「忍坂坐生根神社」から南へ約50m行くと、旧道(近畿自然歩道)の右(西)側、桜井市忍阪生谷(うまれだに)に小さな祠の「玉津島神社」が鎮座しています。祭神は、第19代允恭(いんぎょう)天皇の皇女衣通姫(そとおりひめ)、またの名前を軽大郎女(かるノおほいらつめ)と云って、母は押阪大中姫です。彼女は大層な美人で歌がうまかったけど、同母の兄の木梨軽(きなしノかる)王子と姦通したので、兄が伊予(愛媛県)の道後温泉に流され、彼女も後を追って行き、伊予で心中しました。なお、祠の右側に衣通姫の「産湯井」があり、女子が生れた時、産湯に用いると美人になったけど、今は水が涸れています。
 舒明(じょめい)天皇押坂内陵

 「玉津島神社」から南へ約10m行き、三叉路の角に建つ石標「舒明天皇陵」を左へ折れて、山裾を東へ上ると、第34代舒明天皇の御陵(段ノ塚古墳)があり ます。忍坂彦人大兄皇子の子・舒明天皇は、天智と天武天皇の父で、飛鳥の岡本宮を営み、初め飛鳥に埋葬されたが、後に押坂に埋葬され、万葉集巻13−3331、葬旗の青幡(あおはた)を立てた歌が次で

 隠口の泊瀬の山 青幡の忍坂の山
 は走出(はしりで)の宜しき山の出
 立(いでたち)の くはしき山ぞあた
 らしき山の荒れまく惜(を)しも      
 鏡女王(かがみのおおきみ)押坂墓

 「欽明天皇陵」から小川に沿って東の奥へ行くと、小川の中洲に鏡女王が天智天皇の万葉歌巻2−91に和(こた)へて詠った歌の万葉歌碑が建っています。

 秋山の木(こ)の下隠(したがく)り行く水の
 我れこそ増さめ思ほすよりは 巻2−92

更に少し行くと、683年に亡くなった「鏡女王押坂墓」があり、彼女は近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、 藤原鎌足の妻、額田王が妹です。また、「鏡女王押坂墓」の前を過ぎ、右へ廻り北へちょっと上がると、「欽明天皇皇女大伴皇女押坂内墓」もあります。




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