「大和三山」と「長寿道」の辺り  その3

 イトクの森古墳(池田神社)

 橿原神宮の「北神門(きたしんもん)」を出て、北参道の途中から細い道を左(北)へ入ると、大和三山中で最も高い「畝傍山(標高199.2m)」への遊歩道で、直ぐに第十三期海軍甲種飛行予科練習生「殉国之碑」や、航空母艦「瑞鶴(ずいかく)之碑」等が建っていますけど、「畝傍山」の東麓(とうろく)と西麓(せいろく)には史跡が多く、ここ畝傍山の東麓にも古墳時代前期の「イトクの森古墳」があります。東に向く全長約30mの小さな前方後円墳で、現在は前方部が削平され後円部だけが残っていて、その上に小祠の「池田神社」が鎮座しています。かっては、懿徳(いとく)天皇または皇后陵と云われていました。
 第4代懿徳(いとく)天皇陵

 「イトクの森古墳」から遊歩道を更に西へ向うと、遊歩道に面して灯籠と鳥居が建った所から勾配の緩い石段を上がった奧に鎮守之宮「東大谷日女命神社」が鎮座しているが、畝傍山南麓の遊歩道をちょっと抜けて南へ向うと、第4代懿徳天皇の畝傍山南纖沙渓上陵(うねびやまみなみノまさごノたにかみノみささぎ)があります。「日本書紀」によると、懿徳天皇は大倭日子鋤友(おおやまとひこすきとも)命と云い、第3代安寧(あんねい)天皇の第2皇子で、軽(かる)の境岡(さかひをか、橿原市大軽町付近)の宮に坐し、45歳で崩御され、御陵(みはか)は、畝傍山の真名子谷(まなこだに)の上にあり、と記されています。
 第3代安寧(あんねい)天皇陵

 「懿徳天皇陵」の西に第3代安寧天皇の「畝傍山西南御陰井上陵」があり、その南に「安寧天皇神社」も鎮座しています。古事記によると、安寧天皇は、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみノみこと)と云い、師木は、今の奈良県磯城(しき)郡のことで、父は、葛城の高丘の宮に坐(いま)して天(あめ)の下を治められた第2代綏靖天皇で、母は、師木の県主(あがたぬし)の祖(おや)、河俣比売(かはまたびめ)です。また「日本書紀」によると、安寧天皇は片塩(かたしほ、現在の奈良県大和高田市片塩町)の浮穴の宮に坐して天の下を治め、49歳で崩御され、御陵は、畝傍山のみほとにあり、と記されています。




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