「大和三山」と「長寿道」の辺り  その13

 伝藤原宮「海犬養(あめノいぬかい)門跡」

 「醍醐池」の東側の道を北へ辿ると、「耳成山」へ至りますが、途中に小川が流れていて、側壁に2つの大石が突き出ています。これは藤原宮の四方に各三門があり、そのうちの北面西辺にあった「海犬養門」の礎石と考えられて、橿原市醍醐町の史蹟です。なお、醍醐町は、宮域地内では最も土地が低く、周濠の水を集めた西北辺からは濠跡と木簡等が出土しています。また、藤原宮都の建設は、壬申の乱の後、天武天皇の時代から計画推進されていたが、宮殿の完成を待って遷都(せんと)が行われたのは、694年(持統天皇8年)12月で、当宮都は主として中国洛陽の都城をモデルとし、条里制を採った我が国最初の都市です。
 平成2年7月1日設立の「醍醐資料館」

 「海犬養門跡」から更に北へ行くと、右(東)側奧に「春日神社」「養国寺」そして「是信寺」があり、JR桜井線の踏切を渡ると、国道165号線に出会す角の所の奥まった一画に「醍醐資料館」があります。館内に一歩入ると、直ぐ目の前に1/20に縮小した零式艦上戦闘機の模型が置かれていますが、主として収集展示されている物件は、考古学的な遺品、古文書や古記録、地図等の文献で、過去の人々が生活の間に使い親しんだ手垢の染み込んだ民俗資料であり、1つとして先祖の息がかかってないものはなく、いずれも醍醐町の郷土史を証(あか)すものとして貴重なもので、大切に保存しなければならないものばかりです。
 耳成山(みみなしやま)と古池

 「藤原宮跡」から真北約1.5キロに位置するのが「耳成山」です。東西500m、南北400m、標高139.7mで「大和三山」の中で最も低くいれど、平坦な奈良盆地に直接聳える独立峰なので、その山容は美しく、一段と高く感じられて、明治41年11月11日大演習御統監で天皇も登頂されました。でも、「万葉集」では余り詠われていませんが、中腹に神社が鎮座し、麓の南側が公園で、更にその南側が「古池(耳無の池)」で、池の畔には万葉歌碑があります。

 耳無の池し恨めし吾妹子が来つつ
 潜(かづ)かば水は涸れなむ 巻16−3788
 旧郷社「耳成山口神社」

 耳成山の東中腹に鎮座する「耳成山口神社」の祭神は、大山祇(おおやまつみ)神と高皇産霊(たかむすび)で、730年(天平2年)に耳梨山口神戸の租稲53束3把を定めて4束を祭神料にあてた事が正倉院文書「大倭正税帳」に載っています。859年(天安3年)1月27日従五位下より正五位下に昇叙して、中世には天神社と称し、氏子が天神山郷を形成しました。1702年(元禄15年)神社が焼失し、氏子によって造営されたけど、遷宮に関し紛糾があり、天満宮に改名されそうになりましたが、1705年(宝永2年)「耳無山天神は式内之耳無山口神社」とする事で落着き、祭は郷中が回り支配する事になりました。
 保寿院(TEL 0744-22-8517)

 耳成山から東へ行き、近鉄「耳成駅」の踏切を渡って南へ出て、国道165号線を東へ向いバス停「膳夫(かしわ)」の手前を南へ入ると、「香久山小学校」の隣が真言宗豊山派膳夫山「保寿院(ほじゅいん)」です。聖徳太子妃の膳夫姫が養母の巨勢(こせ)女の菩提を弔う為に建立した「膳夫寺」跡で、本尊は大和三大「虚空蔵菩薩」の1つで、なお、道に面して礎石が2基残っており、1つは二段の円形造出し柱座で、中央に直径20cmの円穴があり、付近から白鳳時代(700年頃)の古瓦も出土し、昭和に東隣の小学校の校内で発掘調査が実施された時も多数の瓦が出土しました。なお、院の南側に「三柱神社」があります。




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