「大和三山」と「長寿道」の辺り  その14

 興福寺(TEL 0744-22-3115)

 「膳夫寺」から「香久山小学校」の東側を廻って、南へ出ると、また「長寿道」で、ちょっと後戻りして西へ向い、近鉄大阪線の「耳成駅」から南へ辿ると、橿原市下八釣(やつり)町に至り、表示を見ながら左(東)へ入ると、「八釣地蔵尊」の名で知られる浄土宗八釣山「興福寺」があります。585年に廃仏派の物部守屋が飛鳥の「橘寺」を焼いた時、金堂の地蔵尊が火を逃れて「香久山」の頂上に逃げて行きました。そこで、聖徳太子が「香具山」の山麓に寺を建てて、地蔵尊を祀ったと云われ、また、興福寺(八釣地蔵)には、聖徳太子が夢のお告げで体顕された夢想の名灸があり、リュウマチや神経痛等に良く効くそうでます。
 畝尾坐健土安(うねびにますたけはにやす)神社

 「八釣地蔵」の「春季法要」は、毎年4月24日に行われ、賑わいますが、「八釣地蔵」の斜め前、道を夾んで西側に、「畝尾坐健土安神社」が鎮座します。「延喜式」神名帳にも載っていて式内社に比定された神社で、祭神は、健土安比売命(たけはにやすひめノみこと)と天児屋根命ですが、健土安比売命は、古事記の波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)で、母の伊邪那美命が火の神を生んでホトを焼き、苦しまぎれにしたウンチで、土の神です。なお、波邇夜須とは、埴粘(はにやす、祭具の土器を作る粘土)のことで、神武天皇が大和平定のとき、天香具山の埴粘から平瓮(ひらか)を作って神を祭り、遂に勝利を得ました。
 畝尾都多本(うねびつたもと)神社

 「畝尾坐健土安神社」からまた西側の道路へ出て、南へ行くと直ぐ、「畝尾都多本神社」が鎮座します。ここは「泣澤女(なきさわめノ)神の杜」で、祭神の泣澤女神は、古事記によると、国生みの最後の段階で伊邪那美命が火の神を生んで陰部を焼いて亡くなったのを、父の伊邪那岐(いざなぎ)命が悲しんで泣いた涙から生まれた女神で、696年(持統天皇10年)7月10日高市皇子が亡くなった時、桧隈皇女(ひのくまノおほきみ)が詠った万葉碑が境内にあります。

 哭沢(なきさわ)の神社(もり)に神酒(みわ)据え
 祈れども我が大君は高日知らしぬ 巻2−202




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