割箸と三宝の「下市町」  その2

 弥助(やすけ TEL 0747-52-0008)

 県道39号五條吉野線をまた西へ戻って、千石橋の南詰交差点を左に曲がり、国道309号線を300mほど南へ行って、バス停「下市本町」から左に入り、バス道路と平行する1本中(東側)の道沿いに鮎料理の老舗「弥助」があります。人形浄瑠璃「義経千本桜・三段目の切、鮨屋の段(通称、いがみの権太)」の舞台になった所で、邸内に維盛(これもり)塚、お里黒髪塚、新平家物語の著者・故吉川英治の句碑などがあります。なお、「義経千本桜」は、「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」と共に浄瑠璃の三大傑作で、「鮨屋の段」は、源平合戦で入水自殺をしたはずの平維盛が、実は名を変え生きのびていたとする話です。
 「西山宗因」の墓がある「本禅院」

 「弥助」からまた国道へ出て、割箸と三宝(三方、さんぽう)の下市町を南北に流れる秋野川を渡ると、崖の上が「本禅院」です。本堂へ上がるまでに「西山宗因(そういん)」の墓があります。江戸初期の連歌師で俳人の宗因は、肥後国(熊本)八代の人で「談林俳諧」の祖と云われ、元は八代城代加藤正方の侍臣でしたが、主家改易のため浪人となって、京に上がり、里村昌琢の指導を受け43歳の時、大阪天満宮の連歌所宗匠になり、俳諧も貞門の重頼などの影響を受け、早くから親しみ、1670年頃、自由で斬新な宗因の俳諧のもとに集まった人々と「談林俳諧」の一派を開き、ここ秋津の里「本禅院」にも寄寓を重ねました。
 下市町新住丸尾の「シダレ桜」

 「本善院」からまた崖下へ下りて、崖に沿った道を西へ上がって左へ廻り込み、更に南へ登って行くと、丸尾の集落に入って、春4月の上旬なら正面の高台に太い幹から枝を四方に垂らした見事な「シダレ桜」が見えて来ます。普段はのどかな山村ですが、春になると、カメラマンがかなり訪れます。少し手前で左手の坂を上がると農家の庭先を廻って桜の下へ行けますが樹高20m、幹周り4mで、推定樹齢200年の桜です。ここは江戸時代、新住村と云われ、丸尾区に人が住み始めた頃、北の麓にある「宮前寺」「専念寺」と東の麓にある「願行寺」の共同墓地で、ご先祖さんが春から子孫の墓参りを願って植えられた「桜」です。
 願行寺(TEL 0747-52-2344)

 「シダレ桜」の下からもとの道を戻らず、更に南へ行って直ぐ左に折れて、東の麓へ下りると、浄土真宗至志山「願行寺(がんぎょうじ)」があります。本願寺第8世蓮如が、1468年(応仁2年)に秋野川の念仏道場を改築し、吉野町飯貝の本善寺(飯貝御坊)と共に吉野地方教化の拠点(下市御坊)とした寺で、本堂は、1580年頃(天正10年頃)の建築と見られ、室町期の本格真宗寺院本堂の数少ない遺構です。なお、本堂に向かって左側にある「梵鐘」は、当地の竜王城主、堀内守俊が1567年(永禄10年)に寄進し、永禄年代の銘があるものでは大和で最古です。また、室町時代の特徴を表す「庭園」は県文化です。
 龍上寺(TEL 0747-52-2853)

 「願行寺」から更に南へ約800m行くと、県道20号下市宗檜線と国道309号線の分岐点で、国道の方へ向うと、バス停「下市町役場」の南西に浄土真宗本願寺派の藤谷山「龍上寺(りゅうじょうじ)」があり、境内に樹齢約300年の白藤が植わっています。ここは、法然と親鸞に師事して念仏修法を修めた聖空(しょうくう、宇野太郎)が1208年(承元2年)に吉野地方で最初の念仏道場、善城(ぜんぎ)の藤谷山雪坊を開いた所で、また、1336年(建武3年)後醍醐天皇が京都を脱出して吉野へ向かう途中、立ち寄って休息された南朝遺跡で、数ある寺宝の中で絹本著色九品来迎図3軸は、国重文で鎌倉後期の作です。




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