大和高田市  その5
 大和高田市本郷町の「八幡宮(伊福寺跡)」

 また、JR和歌山線の踏切を渡って、西側へ行き、線路沿いに南へ行くと、「八幡踏切」のちょっと西に「八幡宮」が鎮座しています。大和高田市本郷町と高田城趾の間に位置し、その鎮守として寺城内(じしきない)に祀られたもので、中世には平田荘内にあり、奈良の興福寺の末寺に属する「伊福寺(いふくじ)」がありました。当寺関係の遺物としては、新庄町南道穂(みなみみつぼ)にある「法林寺」の御本尊として現存する「阿弥陀如来」、五條市内で所蔵されている鎌倉時代書写の「大般若経」600巻があり、写経は当時の住職実賢(じつけん)が、1198年(建久9年)から15年の歳月を費やして筆写したものです。
 高田城趾(たかだじょうし)

 「八幡宮」から東へ行って、JR和歌山線の「八幡踏切」を渡ると、「片塩小学校」で、校舎の南裏側に「高田城趾」の石碑が建っています。高田城は中世、平田荘々官、高田兵庫頭為貞(本姓当麻氏)が築いた城で、後に大和武士として成長し、1467年(応仁元年)頃から戦国時代にかけて、最も強盛であったけど、1580年(天正8年)に行われた織田信長の大和検地に従わなかったので、城地を没収され、続いて信長により大和郡山城主で、大和国守護に任命された筒井順慶の侵攻に合って、1583年(天正11年)8月高田城主一族は滅び、城趾背後の「常光寺」墓地に戦国将士の三界萬霊碑(天文二四年)があります。
 金谷山「常光寺(じょうこうじ)」

 「高田城趾」の南裏側が浄土宗、金谷山、無景壽院「常光寺」です。寺地は、中世の高田城内に位置し、開基は、高田城主の當麻(たいま)三河守為長です。1471年(文明3年)の4月に草創で、1755年(宝暦5年)10月再興の本堂は、昭和38年12月焼失し、境内墓地に戦国の世に散った城主並びに一族郎等を慰める、1555年(天文24年)建立の三界万霊供養碑があり、参河為長と刻せる五輪塔を始め、天正、文禄、慶長、元和時代の碑が多く。また、井原西鶴の「好色五人女」で知られる「八百屋お七」のモデルになった「志ち」のお墓(写真の右端)もあり、西鶴が伊勢に向かう途中で、当地に宿泊しています。




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