高取  その3
 壺阪寺の国重文「三重塔」と「禮堂」

 「壺坂寺」の本尊「十一面千手観音」は眼病に霊験あらたかで、第50代桓武天皇がまだ奈良におられた時、眼を患い、道喜(どうき)上人に百七日の祈祷を頼んだら、たちまち平癒し、847年(承和14年)長谷寺と共に定額寺になり、高野山を凌ぐ大伽藍で、1007年(寛弘4年)藤原道長も金峯山詣での途中で立ち寄ったが、その後度々の大火で緒堂を焼失して、1600年頃(慶長年間)当寺を修理した高取城主の本田因幡守は受付横の「因幡堂」に像を祀られ、そこから向かって右の狭い階段を上がると、平成5年建立の「愛染堂」です。正前にラベンダー畑があり、平成4年天竺の石で建立された「大石堂」、更に石段を上がり回廊をくぐると、1497年(明応6年)竣工の「三重塔」です。また、国重文「禮堂(らいどう)」も室町時代中期以前の建立で、そこを上がった背後の赤い「八角円堂」は江戸時代の建立、「壷坂霊験記」縁の本尊を安置し、今も古くから伝わる秘法を修して観世音の宝前で毎日朝夕、眼病平癒を祈願されます。
 本尊を安置する「八角円堂(本堂)」

 また、「八角円堂」内を右回りに廻ったら、途中に「澤市の杖」が置かれ、杖に触ると夫婦の仲が円満になるが、余り触ると円満に成り過ぎて疲れます。なお「八角円堂」内のもう1つ中に真言密教の始祖龍猛、二代龍智、金剛智、善無毘、一行、不空、七代恵果、八代空海の肖像画があり、また、「禮堂」横の広場に「お里沢市の像」があって、眼病に効くお茶が釜に沸いているので勝手に頂き、広場の外れが沢市投身の崖(狼谷)。「鐘楼」は江戸時代創建、その横の山際に釈迦の生涯を描いた全長50mの石造仏伝図レリーフがあり、南印度カルナタカ州カルカラで印度の石彫師延べ5万7千人が約3年2ヶ月間かけた手彫りです。
 壺阪寺の「天竺渡来大観音石像」

 レリーフの前を通って南の香高山へ上がると、御丈約28mの「大観音石像」が立っていますが、これは壺阪寺の印度救ライ事業に対して、印度政府が南印度デカン高原カルカラに産する3億年前の大理石を提供し、それを印度の文化勲章受章者シエノイ氏及びその一門らと共に7万人の印度の石工が参加して、すべて手造りで製作したものですが、なにせ20mの巨石はそのままでは動かすことも運ぶことも不可能なので、それを66箇に分割して彫刻し、船で日本へ運ばれ、壺阪寺で組立られました。なんと総重量1200トンです。この巨石を支える土台は深く基礎岩盤まで掘り下げられ、そこに数万巻の写経と土台石が埋納されていますが、また、胎内にも数十万巻の写経と胎内石が納められ、66箇の石が1本の巨石になっています。そして、この「大観音石像」の開眼大法要は、多数が参列されて、昭和58年3月12日に営まれました。なお、「大観音石像」の下、数十m前に、やはり天竺渡来の「釈迦の涅槃石像」も横たわっておられます。



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