高取  その4
 壺阪寺奥ノ院の「五百羅漢」

 「壺阪寺」の山門を出て、バス停の方へ戻りながら途中から左(東)へ曲がり「高取城跡」へ向かうと、約300mで「壺阪寺奥ノ院」と云われている香高山(こうこうさん)に「五百羅漢」があります。なお、手前に新しいお地蔵様がドバーと並んでいるが、そちらで無く、その後ろの崖に彫られた磨崖仏で、また、左手を上がった奥にも「三尊弥陀」「来迎如来」等の磨崖仏があり、これらの石仏群は香高山だけで20群以上あり、弘法大師磨崖仏を中心に、釈迦、阿弥陀、十一面観音、五社明神などで、羅漢岩の北に両界曼荼羅の彫刻もあり、石仏群は既に室町時代に造営されてたようで、曼荼羅石は桃山時代造立と推定されます。
 国史跡「高取城跡」

 「五百羅漢」から約1.5キロ登ると「高取城跡」です。1332年(元弘2年)越智邦澄が護良親王の挙兵に応じて高取山(標高584m)に築城した「掻揚げ城」が初めで、織田信長の「一国一城」令で一度破壊された後、1584年(天正12年)郡山城主の筒井順慶が詰城として整備し、後に豊臣秀長が大和へ入国した時、脇坂安治が入城して、次いで秀長の命によって、1589年(天正17年)本田利朝が石塁を築き、本丸に大小の各天守閣を起こし、多くの城門を連ねて櫓楼も配され、山城に平城の長所を取り入れた堅固な城を完成し、関ヶ原の合戦の時、徳川方の本多正広が数百の手勢で豊臣方数千の軍勢を防ぎました。
 日本百名城の1つ「高取城跡」

 芙蓉城、鷹取城とも呼ばれ、城内の周囲約3キロ、郭内の周囲約30キロに及び、日本三大山城中随一の「高取城」は、本田氏が断絶の後、1640年(寛永17年)植村家政が2万5千石で入城して大改修を行い、麓からも眺められ「たつみ高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と歌われ、明治2年藩籍奉還まで230年間14代続き、明治中頃廃城したけど、幕末1863年(文久3年)8月に天誅組五條代官所を襲って代官鈴木陣内以下5名を血祭りに挙げ、千余名でもって、8月26日婦女と子供を加えた約五百名が守る高取城を攻めるべく押し寄せたが、大阪夏の陣で活躍した大砲を麓(鳥ケ峰)に据えて撃退しました。



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