高取  その9
 光雲寺(TEL 0745-62-3315)

 「鐘楼門」を入ると、本堂が県文化の黄檗宗越智山「光雲寺(こううんじ)」です。1346年(興国7年)越智邦澄が菩提寺として創建され、元「興雲寺」と称し、1446年(文安3年)復興して、雪江門下四哲の1人景川宗隆が開山で、その法幢は門下の悦堂宗懌らによって後世に伝承され、大和方面へ禅宗が進出する拠点でしたが、南都諸寺の旧勢力に阻まれて、ほとんどその教線を伸ばすこと無く、越智氏の没落後は一時寺運も衰えたけど、1680年代(天和年中)中興開山鉄牛が来住され、越智氏の石碑八基を改葬して復興に努め、1698年(元禄11年)天湫(てんしゅう)による再興以後「光雲寺」と称しています。
 「越智邦永、邦澄」親子の五輪塔

 「大和志」に「興雲寺」の名が見えますが、それによると、「在越智村有越智加賀守墓碑傍書伝応安三年七月五日山後有古冢六」と書かれているが、応安三年(1370年)の墓碑は不明で、同時代の水輪が残存するだけで、「本堂」に向い左側の石段を上がると、吉野朝忠臣「越智邦永、邦澄」の五輪塔があります。他に「椿寂寿長大禅定門元亀二年辛末九月廿四日」の銘文がある「越智家高」の墓碑も側にあり、元亀二年は室町時代の末期で、1571年8月4日松永久秀が筒井方の辰市城(奈良市西九条町)を攻めて大敗しています。また、お墓の所から本堂の方へ下りないで、そのまま上へ登ると「斉明天皇陵」へ抜けられます。
 斉明(さいめい)天皇越智崗上陵

 高取町車木(くるまぎ)の山の上にあるのが「皇極(重祚して斉明)天皇陵」越智崗上陵(おちおかノへノみささぎ)に治定される御陵です。女帝の第35代皇極(こうぎょく)天皇は、父が茅渟王(ちぬノおおきみ)で、母が吉備姫王(きびつひめノおおきみ)。初め、高向王(たかむこノおおきみ)に嫁して漢皇子(あやノみこ)を生んだ後、舒明天皇に嫁して二男一女(天智天皇、間人皇女、天武天皇)を生んで、舒明天皇の崩御で皇極天皇に即位され、その後、同母弟の軽皇子(かるノみこ、孝徳天皇)に皇位を譲り、孝徳天皇が崩御(ほうぎょ)の後、重祚(ちょうそ)して斉明天皇になり、西征中、朝倉宮(福岡県)で崩御。
 天武天皇妃大田皇女越智崗上墓

 なお、斉明(皇極が重祚)天皇陵には、孝徳(こうとく)天皇の皇后・間人皇女(はしひとノひめみこ、斉明天皇の娘)と天智天皇皇子建王(たけるノみこ、斉明天皇の孫)も合葬されています。また、斉明天皇陵から「光雲寺」の方へ戻らず南へ下りると、途中に「天武天皇妃大田皇女(おおたノひめみこ)越智崗上墓」があります。大田皇女は、父が第38代天智天皇で、母が蘇我山田石川麻呂大臣(そがノやまだノいしかわノまろノおおきみ)の女(むすめ)遠智娘(おちノいらつめ)です。皇女は、持統天皇の姉で、大海人皇子(おおあまノみこ、後の天武天皇)に嫁し、大伯皇女(おおくノひめみこ)と大津皇子を生みました。



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