高取  その10
 国史跡「市尾墓山(いちおはかやま)古墳」

 「越智丘陵」から下りて、県道35号橿原高取線に沿って南へ行き、バス停「兵庫」から右に曲がって、吉備川を渡り、更に南へ向かうと、近鉄吉野線「市尾駅」の手前約500mの所で、田圃の中に「市尾墓山古墳」に出会います。「市尾官司塚(いちおかんすづか)」とも呼ばれ、全長65mの前方後円墳で、前方部幅49m、後円部径39m、高さ10m、前方部と後円部の境に造り出しを設け、幅約8mの周濠と外堤の跡もあり、玄室内には長さ2.7mで県下最大の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺が安置され、南に開口する横穴式石室をもち、北にも小規模な羨道があり、玉、刀、馬具、須恵器、土師器等が出土しています。
 国史跡「市尾宮塚(いちおみやづか)古墳」

 「市尾墓山古墳」から更に南へ行き、県道120号五條高取線を横切って、そのまま道なりに進んだら、近鉄吉野線「市尾駅」に至りますが、駅の方へ行かず県道120号線を西へ向かうと、県道の右に独立丘陵が迫り、丘上に「天満(てんま)神社」が鎮座していますが、県道から緩やかな石段を上がって、拝殿の前から右(北)の脇道へ入ると直ぐ、「市尾宮塚古墳」があります。全長44mの前方後円墳で、後円部には全長11mの横穴式石室が北向きに開口し、錠がされた格子に近づくと、感知して自動的に玄室内にライトが点き、玄室内に安置された凝灰岩の刳抜式家形石棺が良く見えますが、石棺はかなり破壊されています。
 曽羽(そば)城跡

 市尾の「天満神社(市尾宮塚古墳)」から下りて、県道120号五條高取線を更に南へ行って、次の三叉路で右(西)へ折れると、御所市今住の集落で、南側の丘が「曽羽城跡」で、曽羽神社が鎮座しています。なお、丘の上は高取町との境界で、中世の高取町には貝吹山城越智居館、曽羽城、佐田城、城の口城、壷阪城、高取城、観覚寺城、松山城、丹生谷城があり、いずれも高取町大字与楽に在する貝吹山城(平安時代に大和守に任ぜられた源頼親の一族、大和源氏の庶流である越智氏の居館)の支城で、曽羽城は米田隠岐守が領主として、在地領主(武士)同士の抗争に対し、周囲を堀と石垣で囲んだ本格的な中世の山城でした。
 旧村社「天満(てんま)神社」

 市尾の「天満神社」からちょっと東へ戻って、近鉄吉野線の踏切を渡り、近鉄「市尾駅」の東側から真っ直ぐ東へ進んで、交差点も曲がらず藤井の集落へ入ると、集落の外れで右側の山際に藤井の「天満神社」が鎮座しています。祭神に菅原道真を祀り、元は高取町市尾字宮ノ本にあったと云われています。本殿棟札に「天文十三年(1544年)甲辰藤井谷宮家忠」「天正二年(1574年)甲戌七月廿五日藤井谷宮各座衆源三郎家教」とあり、古くは「藤井谷宮(ふじいだにノみや)」と称していた様です。なお、藤井谷家忠は越智氏の家臣で、神社は藤井谷氏の氏神社でしたが、後に藤井村の鎮守として、社名も改められています。



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