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「道標」と「寺の前古墳」
ちょうど「極楽寺」の裏にあるのが「寺の前古墳」です。なお、「極楽寺」は川西町結崎の西端ですが、「寺の前古墳」は三宅町屏風にあって、三宅町にある「前方後円墳」では、墳形が最も整っている古墳で、現在は田圃になっている周濠と墳丘が明らかに残り、明治初期に石室から須恵器や甲が発掘されて、5世紀後半の築造と推定されています。また、古墳の手前で土手になった畦道の脇に石の道標が建ち「すぐ田原本三輪」と彫られています。今は荒れ果てた道ですが、昔は広陵町から「曽我川」「飛鳥川」を渡って、ここ「三宅町」を通り、南の「田原本町」、東の「天理」から「桜井市三輪」へ至る街道だったと思われます。 |
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伝承、蘇我入鹿の墓「島の山古墳」
「寺の前古墳」から少し東へ戻って、北へ行くと、直ぐバス通りで、渡ってちょっと北へ行った右入口に享保13年(1728年)建立の「裾折地蔵」が安置され、集落を更に北へ行くと、「島の山古墳」です。奈良盆地中央の平坦部、寺川と飛鳥川の間、沖積微高地にあり、南南東に前方部を向ける三段築造の前方後円墳で、墳丘長195m、前方部幅100m、同高さ10m、後円部の径105m、同高さ15m。周囲に全長270mで、前方部前面の幅が180m、楯形の周濠を巡らし、墳丘上に円筒埴輪、葺石があり、埋葬施設は不明で、大型の碧玉製車輪石や鍬形石、鏡片等が出土して、5世紀前半の築造と推定されています。 |
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旧村社「比売久波(ひめくわ)神社」の本殿
大和国古墳取調書では「恐らく皇后の御陵ならん」と記し、また、蘇我入鹿の墓と伝える「島の山古墳」西側の周濠に沿って北へ辿ると、濠に接して「比売久波神社」が鎮座しています。県文化の本殿は、一間社春日造で、春日大社摂社若宮の本殿を江戸時代初期に移築し、祭神は、久波御魂神(くわみたまノかみ)・天八千千姫命(あめノやちちひめノみこと)。神社名は、蚕桑(ひめくわ)を意味し、桑葉を神体としたと伝えられ、近くの川西町結崎(ゆうざき)に鎮座している「糸井神社」が機織り技術者集団の神を祀ったと考えられることから、古代にはこの辺り一帯、織物技術をもった集団が住み着いていたと思われています。 |