月ヶ瀬  その2
 天下の名勝「月ヶ瀬梅渓

 「天満天神社」前に「頼山陽詩碑」が建ち、眼下に五月川(上流名張川、下流木津川)がV字の渓谷を形成し、村の中央を横断して流れているので、梅林と呼ばず、梅渓と呼ばれる「月ヶ瀬梅渓」は、大正11年名勝に指定されましたが、昭和44年「高山ダム」が五月川の下流、京都府領に建設され、かっての川岸の景観も奇岩と共に水中に没したけど、それでも梅木の移植作業がダム完成の2年前に完了し、新たに梅苗が3000本、桜や楓がそれぞれ2000本移植され、昭和45年に「観光会館」が「月ヶ瀬橋」の近く長引(ながびき)に建設されて、今では約2ヘクタールに約1万本にのぼる梅園の管理や育成に努めています。
 月ヶ瀬橋(幅6m、延長167m)

 名勝「月ヶ瀬梅渓」には、1820年(文政3年)儒学者の斉藤拙堂(せつどう)が来遊して、「月ヶ瀬記勝」を著し、また、1830年(天保元年)頼山陽が訪れ、彼の有名な六首の漢詩、「両山相蹙(りょうざんあいせまって)一渓明(いっけいあきらかなり)路断(みちた)えて遊人渡(ゆうじんわたし)を呼んで行く・・・」の七言絶句を詠んでいますが、当時は五月川に「竹陰の渡」があったけど、明治20年県道奈良〜津線が開通されて木橋が架設され、昭和6年に鉄筋コンクリート橋になり、後に下流に「高山ダム」が建設され、湖底に水没する事となって、昭和43年春3月、現在の「月ヶ瀬橋」の架設竣工をみました。
 八代亜紀の観梅記念樹

 「天満天神社」が鎮座する梅の見所「帆浦梅林」の辺りから「春告げの小径」を通って、「五月川」の岸辺へ下りると、「月ヶ瀬橋」のたもとに「月ヶ瀬観光会館(TEL 07439-2-0300)」があり、玄関前の広庭に幕末・明治・大正の南画家で、儒学や漢学詩文にも秀でていた「富岡鉄斎」の碑が建っていますが、彼は、明治28年2月60歳の時、「月ヶ瀬観梅第4回内国勧業博覧会」の審査員として、名勝「月ヶ瀬梅渓」を訪れ、なお、テイチクレード専属歌手「八代亜紀」も昭和53年2月17日三十路になる前年に訪れ、観梅記念に紅梅を「月ヶ瀬観光会館」の玄関前に植樹し、今では毎年早春に見事な紅梅が花を咲かせています。




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