月ヶ瀬 その10
 恋志谷(こいしだに)神社

 「石鳥居」をくぐり、石段を上がった高台に鎮座している社は、向かって左が「恋志谷神社」で、祭神は第96代後醍醐天皇の籠妃で、1331年(南朝年号元弘元年)天皇が笠置山において北條高時の鎌倉幕府軍に敗れ、翌年3月日本海の孤島、隠岐島(島根県)へ流された時、病身の姫は、伊勢の海辺で療養していて、平癒してから笠置行在所へ向かいましたけど、当地の古森まで駆け付けた時、天皇は既に捕らえられた後と聞き、天皇に会うこと叶わず、悲観に暮れて、持病再発し、自害して終いました。なお、姫は辞世に、天皇の身上を憂慕し、自分の病苦を嘆き、後世の人の病苦厄難を除かんと宣言し、口碑に遺したそうです。
 天満宮の「石灯籠」

 また、「恋志谷神社」は、今は、姫が叶わなかった夢を、参拝のカップルに託し、恋愛を成就させてくれると評判です。所で、「恋志谷神社」は、平成11年造営され、10月11日棟上式が行われていますが、向かって右隣に「天満宮」が坐し、石段を下りた右側に石灯籠が並び、その内の一番大きな四角型灯籠は、天文14年(1545年)の造立花崗岩製で、総高が約170cm、基礎半分を土中に埋め、側面を2区に分かち、格狭間上端反花を彫り出し、屋根の反り軒作りも穏やかで室町様式を伝え、宝珠も当初のものを使用しています。なお、刻銘は竿一面に「梵(きゃ)奉寄進六済中人数各々敬白天文14年乙巳3月15日」
 恋路橋(こいじばし)

 「恋志谷神社」を出て、道を横切り、そのまま真っ直ぐ進むと、「木津川」で、車も通れる「恋路橋」が架かっています。橋を渡ると直ぐ国道163号線で、また、国道を横断すると、JR関西線の「大河原駅」ですが、通常は、駅から南山城村南大河原の「恋志谷神社」へ通じる橋が「恋路橋」で、噂によると、この橋を歩いて渡ってお参りすると、恋愛成就、子授け等にも霊験あらたかな「恋志谷神社」の姫神が、願い事をよく叶えて下さるそうで、願いがパワーアップするらしいと云われています。なお、橋から上流を見るとコンクリートのモダンな「やまなみホール」が見え、建築家黒川記章氏が設計の本格的な音楽ホールです。
 伊賀市島ヶ原「薬師堂磨崖仏」

 京都府南山城村から国道163号線を東へ行くと、三重県伊賀市島ヶ原で、JR関西本線「島ヶ原駅」から東へ行った踏切を渡って北へ向うと、正月堂への道で、途中の崖下に建つお堂の中に「石薬師磨崖仏」が安置されています。花崗岩の自然石に四体の仏が半肉彫で刻まれ、向って右端は、左手に薬壷を持った高さ51cmの「薬師如来坐像」で、蓮華座の上に座し、左側の三体の仏は「阿弥陀如来三尊立像」で、真ん中に高さ78.8cmの「阿弥陀如来立像」が刻まれ、如来を守るように、左右に高さ48.5cmの「観音菩薩立像」と「勢至菩薩立像」が刻まれ、製作年代は共に1350年頃、南北朝時代と推定されています。
 観菩提寺(TEL 0595-59-2009)

 また、崖の下から上がった車道の反対側に慶長9年(1604年)の銘がある「薬師沢六地蔵磨崖仏」があり、更に北へ進むと、突き当りに天台真盛宗「西念寺」があり、左に折れて道なりに北へ向うと、真言宗普門山「観菩提寺(かんぼだいじ、正月堂)」です。752年(天平勝宝4年)聖武天皇の勅願で、東大寺の実忠和尚が開創し、仁王と裏に四天王の二神が立つ重文の楼門を潜ると、正面の本堂が方三間半、単層入母屋造、桧皮葺の重文で、本尊の「十一面観音立像」も重文秘仏、33年に一度開扉され、毎年2月11日・12日東大寺のお水取りに先駆けて行われる修正会は、県の無形民俗文化財で、「達陀」も行われます。
 旧「大和街道」の「芭蕉の句碑」

 なお、「正月堂」に面し、東西に延びる道は、大和時代の「和洞の道」ですが、「和銅の道」を東へ向って進み、途中から南へ向い、島ヶ原温泉「やぶっちゃ(TEL 0595-59-3939)」の横を通り、木津川の「鯛ヶ瀬大橋」を渡って、旧国道163号線を東へ進み、伊賀市上野へ入った辺りで、国道から右へ折れると、旧「大和街道」に至り、道端に「芭蕉の句碑」が建っています。1685年(貞享2年)2月松尾芭蕉42歳が「野ざらし紀行」の旅で、帰郷していた伊賀上野の生家から奈良へ向う途中、この辺りで詠んだ句です。

 春なれや名もなき山の薄霞  芭蕉庵桃青




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