東大寺二月堂修二会(お水取り) その2
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また、修二会では、毎夜の行法の他に幾つかの付加儀礼があり、5日と12日の「初夜」で、22時頃に奉読される「過去帳」もその1つです。声明風の節を付けて朗読される我が国最古の過去帳は、東大寺に功のあった「大伽藍本願聖武皇帝」を筆頭に、「聖母皇太后宮(聖武帝の母、藤原宮子)」、「光明皇后」、「行基菩薩」、女帝「本願孝謙天皇」、・・藤原「不比等右大臣」、橘「諸兄左大臣」、インド僧「大仏開眼導師」、・・「真言宗を興せる根本弘法大師」、・・「当時造営の大施行主将軍源頼朝右大将」まで40分、その後18人目声をひそめて呼ばれるのが「二月堂縁起」「能」で有名な「青衣(しゃうえ)の女人(にょにん)」です。元々呼ばれていなかったが、1210年頃(承元年間)の修二会で集慶(しゅうけい)と云う練行衆が過去帳を読んでいると、目の前に青い衣の女人が忽然と現れ、「なぜ我が名を読み落としたるや」と恨めしげに云ったので、とっさに着衣の色を見て「青衣の女人」と読上げると、にっこり笑って掻き消えました。それから過去帳の朗読では、必ず呼ばれているが、その女人が何処の誰なのか、今もって誰も知らないそうです。 なお、「青衣の女人」の後、別当延杲(えんごう)大僧正の次に読み上げられる、造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏とは、平安末期〜鎌倉初期の浄土宗の僧、俊乗房「重源(ちょうげん)」のことです。 |
過去帳
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また、5日は実忠和尚が、809年(大同4年)2月5日後夜(ごや)行法の最中に入寂されたので、3月5日に「実忠忌」の行法が加えられ、それから3月5日、6日、7日と12日、13日、14日それぞれ「半夜」の後、23時頃に、二月堂内を練行衆が息せき切って全力疾走でバタバタと走り廻る1日千遍の「走りの行法」が行われるが、これは、兜率天の1日(人間世界の400年)に少しでも近づき追いつく為に、練行衆は袈裟(けさ)や衣をたくし上げ、差懸(さしかけ)を脱いで、内陣(ないじん)の中央に置かれた須弥壇(しゅみだん)の回りを走り廻って最後に、内陣の手前にある礼堂(一般参加者も入れます)で、座布団の上へ膝からドスンと五体投地をすると、紙衣の膝も破れて自分の席へ帰って行かれます。最後に末座の練行衆が終わった後、堂司から一滴の香水(こうずい、霊水)が施(ほどこ)されますが、昼食の一汁二菜(おまけに必ず一握り御飯を残し、屋根に投げ上げ、東大寺に飛んで来る鳥達に捧げ)の精進料理の後、何も口にされていない身には甘露です。なお、「香水授与」で、一般参詣者にも礼堂から格子を通して香水が分けられ、頂くと無病息災の霊験があります。 |
五体投地(ごたいとうち)
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香水授与
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また、二月堂の本尊は、堂内の前後に二対安置されている秘仏の「十一面観音」で、それぞれ通称で「大観音(おおがんのん)」、「小観音(こがんのん)」と呼ばれ、3月7日の日没後「小観音出御」で、それまで後に安置されていた小観音が大観音の前に安置され、「小観音後入」でまた後に安置されるが、「小観音」が前に安置されている間一晩中「手向山八幡宮」の宮司と随伴者が「小観音」の入った厨子の側で警護しますが、これは室町時代、盗まれた「小観音」を手向山八幡宮の神主が救った故事に由来します。
そして、付加儀礼で最も有名なのが12日「半夜」の「走りの行法」後、「後夜」で行われる「お水取り」です。正確には13日午前1時半頃行われ、二月堂の本尊で秘仏「十一面観世音菩薩」に供える閼伽(あか、仏様に供える香水)を「二月堂」下に建っている国重文「閼伽井屋 (あかいや)」の若狭井(わかさい)からを汲み取る行事で、これが現在では「修二会」全体を現わす俗称のお水取り」になっていて、二月堂との間を3往復して運ばれる「お香水(こうずい)」は、内陣須弥檀の下に埋め込まれている瓶の中に納められます。 所で、普段は水が全く枯れているのに、不思議な事に、3月12日深夜、「お水取りの儀式」の時だけ、若狭国(福井県小浜市)の遠敷(おにゅう)川の水が沸き出します。毎年3月2日若狭の鵜ノ瀬では「お水送りの儀式」が行われ、その関係で小浜市と奈良市は、国内の姉妹都市です。若狭井の由来は、最初の修二会で、実忠和尚が神名帳を奉読し、全国津々浦々の八百万ノ神、1万5千を二月堂へ勧請したとき、神々が来堂し、行法を祝福しましたけど、若狭ノ国の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが日本海の沖で魚釣りをしていて、3月1日に東大寺へ来られず、修二会も後2日で終わろうとする12日になってから、やっと来られたが、うっかりサボった罰として、詫びのしるしに若狭の水を献上しようと申し出て、二月堂下の大岩の前で一心不乱に祈って折ると、岩がパックリ割れ、割れ目から突如白と黒の二羽の鵜(う)が飛び立ち、甘泉がこんこんと沸き出しました。現在そこに閼伽井が掘られ、石で囲ったその閼伽井が「若狭井」と名付けられました。 それから毎年、修二会で用いる閼伽は、3月2日若狭小浜で「水送り」の後、10日間かけて東大寺へ届き、13日午前1時過ぎ、滑って転ばない様に上と下の3段に線刻模様が刻まれている南側の石段(青石段)を、灑水器(しゃすいき)を持った呪師(しゅし)を先頭にした6人の「水取衆(練行衆)」と手向山八幡宮の宮司が作った大きな御幣を掲げた講社の人々が、童子の持つ「呪師松明(蓮松明)」に先導されて下り、榊(さかき)と注連縄で囲われて、門灯提灯が2つだけ灯る二月堂下の「閼伽井屋」の中へ咒師と、兜巾(ときん)に房の付いた結袈裟を着た山伏姿の堂童子、閼伽井棚を担った庄駈士(しょうノくし)の3人だけが入って、真っ暗闇の「若狭井」から香水を汲まれます。 |
お水取り
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左「火天」、右「水天」 |
ついでよく知られている行事が、3月12日、13日、14日の23時頃から行われる「後夜」の行法、「達陀(だつたん)」と呼ばれる火の行法です。達陀とは、サンスクリット語「ダグダ」の地方語、パーリ語「ダッタ」で「焼き尽くされる」「滅し尽くされる」と云う意味です。なお、達陀の行法は、練行衆が「火天役」と「水天役」の1対になり、踊る様に勤めますが、その間堂内に乱入しようとする鬼を追い祓う為、鈴、錫杖(しゃくじょう)、乱声(らんじょう)とよばれる法螺貝と太鼓の大音が発せられ、同時に堂童子が鐘を激しく撞くと、「火天」は内陣で大松明を振り回して人々の煩悩を焼き尽くさんばかりに踊り、相対する「水天役」は灑水器(しゃすいき)と散杖(さんじょう)を持って水を撒き、実に華麗(かれい)かつ幻想的な行事で、最後に「火天役」が大松明を礼堂に引き出し、三度上下した後、ドンとばかりに床板に打ち据えると、人々は、凄まじく飛び散る火の粉に一瞬息を呑むが、緊張の後はユーモアで、一日の行法が終ると、練行衆は小さな「下り松明」に照らされながら下堂されるが、その際、青竹の杖を1本引きづって石段を打ち鳴らし、「ちょうず(手水、トイレ)、ちょうず」と叫びながら一気に駆け下って来られます。これは誰もいなくなった二月堂に鬼が出て来て、松明を振りかざし、火遊びされたら大変なので、練行衆が「ちょっとトイレに行って来るだけ」と鬼に聞こえる様に言うけど、実はそのまゝ帰ってお休みになる間、鬼が出て来ない様に騙す為の偽りごとです。
所で、寄棟造、本瓦葺の壮大な東大寺二月堂は、1180年(治承4年)12月平重衡による奈良責めの兵火では炎上を免れたが、1667年(寛文7年)2月14日未明「達陀」の残り火で全焼し、現在の建物は、1669年(寛文9年)犬公方・綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)に進言した奈良市出身の隆光大僧正の助力により、東大寺の公慶上人(19歳で練行衆)が再建しましたが、大仏殿の再興許可が幕府から下りたのは、1684年(貞享元年)で、その前年公慶上人30歳は最初で最後の咒師を務め、以後は修二会に参籠せず、大仏殿再建のため、諸国勧進に勤めて大仏殿再建前、58歳でなくなりましたが、勧進の御礼に生前、大仏の体内にあった木組みの古材で高さ約40cmの阿弥陀如来像を千躰彫り、全国の寄進者に贈ったのが、群馬県草津町や宮城県白石市で発見され、全部で6躰見つかっています。 なお、二月堂の本尊は、2躰の十一面観世音菩薩で、大観音の方は、寛文7年の修二会で二月堂が炎上した時、焼け跡から拾い集められた銅造光背の断片が残っていて、復元された光背を見ることが出来、その大きさや線刻の図様から類推すると、如何に立派な立像で有るか想像されます。もう一方の小観音は御厨子に納められ、3月7日の日没後に、練行衆により内陣から出御し、礼堂で大観音の前に安置され、十一面悔過「散華」において「光明熾盛照十万摧滅三界魔波旬、抜苦悩観世音、普現一切大神力・・」の経が唱えられ、光明ははなはだ盛んに十万を照らし、三界(仏教で一切の衆生が生死輪廻する迷いの世界を云い、欲界、色界、無色界、または、過去、現在、未来の三世)の魔王の波旬(はじゅん)を摧(くだ)き滅す、(衆生の)苦悩を取り除きたまう観世音菩薩、普(あまね)く一切の大神力(だいじんりき)を現じたまうなり、と観世音菩薩を賞美し、慈悲深いお力に救いを求めます。 しかし、神輿の型をした御厨子内の小観音の姿は、練行衆と云えども拝する事は出来ませんが、何でも約20cm(7寸)の十一面観世音菩薩で、この仏様はその昔、笠置山で兜率天へ行き、摩尼宝殿の49院を1つ1つ廻って最後の常念観音院で生身の十一面観音を見て来られた実忠和尚が、どうしてももう一度、観音様に会いたいものと思い、摂津(今の大阪)の難波津へ赴(おもむ)き、香華をそえて閼伽折敷(あかおしき、仏に供えをする敷物)を海に浮かべ、西方の彼方にあると言う補陀洛山(ふだらくさん)に向かって手を合わせ、一心に観音を勧請したが、閼伽折敷は南へ向かっては帰り、また、南へ向かって漂うという具合でした。そうこうすること百日ばかり、実忠が毎日熱心に拝んでいたら、ある時、海の彼方から7寸ばかりの十一面観世音菩薩像が閼伽折敷に乗り漂い来て、ビックリした実忠和尚が早速手に取って拾い上げるたら観音に人肌の温もりがあったので、これぞ生身の観音であると喜ぶと、現在の堂童子(稲垣家)の先祖が藁に包み、背負って持ち帰り、羅索院に安置しました。今は拝することが出来ませんが、過っては拝することが出来たのか、鎌倉時代の図像抄に二月堂本尊として十一面観音が描かれ、今も噂によると、厨子に安置された秘仏の十一面観世音菩薩(小観音)は温かいそうです。 そして、最後に食堂(じきどう)行法の最終日、練行衆の首座にあたる和上(わじょう)が、わずかに残しておいた一握りの生飯(さば)を「御仏(みほとけ)の恵(めみ)、鳥や獣(けもの)にも普(あま)ねし」と云って、食堂の屋根に投げ上げるが、この時に寺男二人が、和上の「番所」の叫び声に応じて「破れ鍋」をうやうやしく担いで来て、飯を入れる動作をされます。なお、「番所」とは、非人の呼び名らしく、昔は食堂付近に集まった非人に布施をし、鍋に実際に飯を入れていたらしいけど、今どき非人なんていないのに、しかも底が抜けた鍋を担いで今も「破れ鍋行法」を続けられるとは、不謹慎かも知れないが感心を通り越し可笑しくもあります。また、「破れ鍋」が何時頃のものかは、さっぱり判りません。
なお、修二会の満願(まんがん)は14日、と云うよりも15日早朝、仏陀(釈迦)の月違いの命日で、涅槃経(ねはんきょう)が唱えられ、午前4時「牛王宝印(ごおうほういん)」が赤衣をまとった堂童子(普段は薬師寺の頭領・上田氏)により練行衆の額に押され、「満行下堂」がなって、激しい修行中祭壇を飾った造花の椿が適当な長さに揃えて、練行衆に配られます。そして、3月15日9:00〜15:00、「達陀帽戴き」が二月堂であり、これは「達陀の行法」で使用された蒙古の兜の様な形をしたピカピカ金襴の達陀帽を幼児の頭に被せる行事で、誰でも参加することが出来、達陀帽を被ったお子さんは賢い子に育ちます。 また、これらの修二会(しゅにえ、お水取り)は、平安時代に弘法大師の空海さんも練行衆としで参加され、江戸時代に松尾芭蕉、大島蓼太(りょうた、雪中庵蓼太)、小林一茶も拝観し、「二月堂」南側の階段(青石段)を下りて、「法華堂(三月堂)」の「北門」をくぐり、左折した所にある「龍王之瀧」の前に芭蕉の句碑が建ち、「お水取り」が終わると、水がぬるみ、大和路にやっと春が訪れます。 水取りや こもりの僧の 沓の音 芭蕉 以上、長文の御精読に感謝して合掌 ●備考 東大寺に正月堂はありませんが、三重県伊賀市島ヶ原と京都府相楽郡笠置町に正月堂があり、東大寺には二月堂の他に三月堂と四月堂もあります。 |