奈良市の東端「田原」「水間」から「山添村」  その11

 真言宗東寺派「観音寺」

 山添村広瀬の「西方寺跡」から又「名張川」沿いに上流へ辿り、山添村葛尾(くずお)へ至って、笠間川(かざまがわ)が「名張川」へ流れ込む所で、「笠間川」沿いにちょっと山道を上がると、集落の外れに、「観音寺」があります。1720年代(享保年間)の開基と云われて、開山の金海和尚の墓碑銘に寛保二年(1742年)示寂(じじゃく)とあり、本寺には、秘仏としてずば抜けた異形を放つ「木造十一面観音立像」が安置され、像高128.2cm、檜材寄木造、若い感じの肉付きの良い丸い顔や、やわらかな丸みを持った肩の調子が総じて清楚優美で、よく時代の様相を表している仏像で、平安時代後期の作だそうです。
 国指定「岩屋瓦窯跡」

 「観音寺」から又「名張川」と「笠間川」が合流する地点まで下りて、「笠間川」に架かる「波多野橋」を渡って右へ曲がった直ぐの所に「岩屋瓦跡」があります。道路に面して丘陵の北斜面に立地し、県道拡張工事の際に発見され、昭和53年と昭和60年に発掘調査が行われて、その結果、燃焼室や焚口部分は既に破壊されていたけど、焼成室と灰原の一部が存在し、奈良時代の瓦窯の構造が明らかになりました。なお、当瓦窯跡から出土した軒(のき)瓦は、笠間川の上流約3キロにある「毛原廃寺」の伽藍に用いられていたことが確認されている他、同型の軒瓦は名張市夏見廃寺を始めとして伊賀の諸寺院からも出土しています。
 旧村社「八柱(やばしら)神社」

 「岩屋瓦窯跡」から「笠間川」沿いに上流へ辿ると約1キロで山添村岩屋の集落に至り、「八柱神社」が鎮座しています。祭神は、高御産日(たかみむすび)神、神産日(かむむすび)神、玉積日神、足産日(たるむすび)神、生産日(いくむすび)神、事代主(ことしろぬし)神、大宮売(おおみやノめ)神、御食津(みけつ)神の八柱です。なお、「八柱神社境内」は山添村指定史跡で、拝殿の前に樹木(ムクロジ)が植わっていますけど、これは、1580年(天正8年)4月筒井順慶が「伊賀攻め」の際、この地に立ち寄って、この木に鉾を立て掛け、本社に戦勝を祈願したと伝えられ、俗に「鉾立ての木」と云われております。
 山添村岩屋の「八柱神社」の滝

 「八柱神社」の正前を下りて、右側へ曲がった所に落差約5mの滝があります。また、滝の手前、右側に高さ約1.5mほどの石灯籠が建っていますが、これは、1580年(天正8年)4月大和領主筒井順慶が「伊賀攻め」の際、参加して戦死した地元民らの霊を供養する「供養塔」です。なお、天正8年には、筒井順慶が大和の国中諸寺の梵鐘を徴発して鉄砲を造り、織田信長が大和郡山城を除く大和諸城の破壊を命じ、検地指出を命じています。また、通常「伊賀攻め」と云えば、天正7年9月信長の次男信雄(のぶかつ)が勝手に総勢一万の兵で、半数にも満たない伊賀を攻めたけど、伊賀勢のゲリラ戦に遭って散々に負かされ、開戦からわずか三日後に逃げ帰り、信長から「勘当も辞さない」叱責を受け、そこで信長が改めて天正9年9月筒井氏を含む総勢4万の軍勢で一気に攻めて、僧侶、女、子供、果ては犬猫に至るまでも皆殺しにし、土豪の滝野氏ら千六百が立て籠もる最後の砦、名張市赤目の「柏原城」も10月落城させた事を云います。




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